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2018-09-26

◆南宮大社

先月の話ですが、岐阜県にある南宮大社へ参拝に出かけた。

名前は聞いたことがあったが一度も行ったことがなく、夏の休みに何となく思い立ちお参りに。

南宮大社③

道中、神社の手前で巨大な鳥居が現れたので驚く。こんな大きな神社だったとは。

南宮大社⑥


南宮大社②

鳥居を潜ってしばらく行くと大きな建物が見えた。
立派な楼門だ。


南宮大社⑤

正面の石橋は柵が施してある。本殿の正面を真正面からとらえているので、これは神様が通る石橋。人が通ってはいけない。

神社でこういう石橋はよく見かけるが、お寺でもたまにあることがある。弁才天を祀る寺で見たか。


現在の建物は寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したもの。1600年におきた関ケ原の戦いで全焼したらしい。どうもこの辺りに陣地を構えていた大名がいたようだ。

南宮大社①
御祭神は「金山彦大神」。鉄の神様だ。知り合いに金属関係の会社の社長さんがいるが、そこの会社の敷地内に立派な御社があった。どんな神さまかと聞いたらこちらの神社だった。思えばその時に初めて知ったのが南宮大社だった。


当店のお客様にも金属関係の会社をしている方がいらっしゃるが、やはりそこの会社の事務所の神棚にも、こちらの神様のお札があるらしい。全国的に見ても、製鉄関係のお仕事をしている人達の信仰が多いようだ。寺社参りをしていると神様や仏さまにも得意分野があると分かる。やたらめったら御利益目的で回るよりも、自分の職種にあった神仏を信仰すると言うのもアリだろう。


南宮大社⑦

こちらが拝殿。どの建物も立派だ。主だったどの建物も重要文化財に指定されている。素晴らしい。


南宮大社⑧


こちらが本殿。一部修理中だったようで、全容は分からなかった。誰かが常駐し、建物や境内が手入れ掃除され、また参拝客も多い神社は気持ちが良い。神様の力も強いし機嫌も良いからだと思う。社伝にはこうあった



~御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。

 社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄(きんし:トビ)を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます~


とある。十代崇神天皇の頃と言うのは諸説あるが3~4世紀頃らしい。続けて社伝に戻ると・・・


~御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ名神大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。  

天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、 正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、 美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります ~




平将門公を誅伏したという話はここ以外でも聞いたことがある。確か奈良県の秋篠寺の太元帥明王(たいげんすいみょうおう)にもそんな逸話があったと記憶している。太元帥明王は明王の総帥とも呼ばれ、御利益と言うか得意分野は相手を調伏すること。昔、一度秋篠寺へお参りに行ったが、太元帥明王のそのお姿の凄さには恐れ入った覚えがある。
 
 
金山彦大神も、平将門公を倒すために祈りを捧げられたということは、相当に強い、厳しい神様なのだろう。実際、武将たちの信心も厚かったようだ。

南宮大社④

参拝を終え、楼門の裏側を一枚写真を頂いてから神社を後にした。この後、神社から少し行った所のお寺へ行った。元々、明治以前の南宮大社は、仏と神を一緒に祀っていた場所だった。境内に神宮寺があったのだ。次回は旧神宮寺のお話です。




2018-08-24

◆天河神社  御開帳

奈良県にある天河神社。修験道とも所縁の深い神社で、1300年の昔から弁財天を祀っている。もう終わってしまったが2018年8月某日、ご本尊の弁財天像が30年ぶりに御開帳という事でお参りに出かけた。

IMG_4977.jpg

天気は快晴、確かに暑いが名古屋よりは涼しかった。

IMG_4978.jpg


IMG_4974.jpg


この神社に参拝に来たのは、4回目か。前回訪れたのは平成20年。この時も御開帳だった。


弁財天は仏教(主に真言宗や天台宗)に登場する水の性質を持つ天部であるが、神社で祀られることもある。昔は神と仏は今ほど区別なく祀られていた。神仏習合という考え方で一緒になっていた。
 
 
今日の神社には仏教の仏が殆どいなくなってしまったが、弁財天は神社に残っているケースが比較的多いと思う。


IMG_4971.jpg


手と口を清めて本殿へ向かう。拝観料は3000円ほどだったか。通常の他所の御開帳と比べると高いような気がするが、これはお土産で弁財天の「比礼(ひれ)」が頂けるから。
 
 
比礼とは布のこと。神社側からの説明は無かったがおそらく御開帳に併せて御祈祷されたものと思われる。比礼とは神道に所縁のあるもので、古事記を読むと蜂比礼と蛇比礼が登場する。強力な厄除けの力がある御神器だ。
 

頂いた比礼は使い方等の解説も無かったが、今ならなんとなく分かるような気がする。

さて、上野画像左側の階段から本殿へと上がるが、階段側から見ると進行方向上に本殿はなく、上り詰めると神楽殿と本殿の間に着く。
 
本殿と神楽殿が階段に対して横向きに建てられている。これは珍しい造りで、全国でも類例はないんじゃないかと思わせる。
 
 
何度来てもこちらの弁財天社は清々しくも力強い場所だ。御開帳になっていた弁財天像を見て驚いた。10年前の御開帳で見た弁財天像とまるで違うのだ。少々混乱したが、後で神社の人に聞いたら、平成20年の御開帳は日輪大弁財天像で、この像とは違うと言う事だった。
 
 
天河弁財天社には、秘仏になっている弁財天像が二つあったと知った。前回御開帳の日輪大弁財天像は60年に一回の御開帳。今回の弁財天像は本尊格のものであった。こちらが30年毎の御開帳だったのだ。
 
 

どちらの弁財天像も、例え写真を撮っても良いと言われても、撮れない雰囲気があった。霊位と言った方が良いかもしれない。
 
 
本尊の弁財天像は所謂「宇賀弁財天像」で、三尊形式で祀られていた。中央に弁財天、向かって右側が阿弥陀如来、左側が蔵王権現だ。弁財天の周囲には小さな15童子像もあった。
 
 
蔵王権現ありきの弁財天、弁財天ありきの蔵王権現という感じで、こういう祀られ方をしているのは他にはないと思う。
 

10年前を思い返すと、日輪大弁財天像は単独で祀られており、どこか生々しいより人に近い雰囲気の尊像だった。もう感覚の話でしかないが、今回御開帳の弁才天は仏教色の濃い弁財天で、日輪大弁財天は神道寄りの弁財天だと感じた。


参拝を終え、境内にある祠をお参りしていた時、神社側が用意してくれた説明書きに目が留まった。

IMG_4968.jpg

上から4枚目の画像、階段途中の左側に5つ社があるが、それの解説文だ。この5柱の神様を見て驚いたのは、陰陽道に出てくる祟り神の中でも特に凄まじい力を持つと言われる「大将軍」を祀っていることだった。
 

五つ社の真ん中が日本を代表する天照大神、その両脇に大将軍と怨霊神として祀られた天神様、そして両角に地元の神と竜神様(弁財天は龍神の一族)を祀っていた。さらにこんな説明文も・・・。


IMG_4967.jpg

古い寺社はそこにある理由というのがある。何故その地が選ばれたのか。


天河弁財天の場合、それは4つの石があり、三つの川があり、8つの社があったからだという。この内8つの社は後から出来たのかもしれないが、8という数字、それも前述の境内に大将軍が祀られているとすると、この8とは八王子神を指す可能性も出てきた。
 
 
祟り神の王様的な存在、牛頭天王という神様が陰陽道には出てくるが、その子供達のことを八王子神と云う。もし説明文の八つの社が八王子神だとすると、八王子神に囲まれた中心に弁財天社があることになる。
 
 
帰りの道中、天河神社からさほど離れていない所に「八坂神社」があった。八坂神社の御神体は牛頭天皇(後に素戔嗚尊になる)だ。当日は時間が限られていたので調べられなかったが、天河神社の周辺の八つの神社に興味が出てきた。
 

そしてもっと良く分からないのが元々あった(?)4つの石。この内三つは境内にある。もう一つはどこにあるのか?

IMG_4970.jpg

触れないよう柵が施されていることから、御神体のような扱いだ。

IMG_4969.jpg


写真は無いが、境内には役行者像も祭られていた。役行者には二柱の鬼神が仕えていたとの伝説がある。男の鬼が前鬼、女の鬼が後鬼だ。この天河神社の氏子には前鬼の子孫が今なお残っているらしく、境内に奉納された石柱の裏にはその子孫を匂わせる名前もある。

IMG_4975.jpg

修験道との所縁が深い天河神社。それを切り離しては考えられない。

4回目の参拝にして初めて気付いた様々な疑問。
 
 
修験道の本尊で有名な蔵王権現、蔵王権現とはそもそも何なのか、天河神社周辺の八つの社は何が祀られているのか、八つの社は天河神社創建以前にあったのか、なかったのか、4つの石とは何なのか?


何分名古屋からは遠い吉野。頻繁に出かけることも出来ないですが、機会があれば天河神社の周辺をじっくり調べてみたいと思いました。





2018-06-12

◆桑實寺と安土城  後編

桑實寺の本殿を参拝後、境内を散策していたら何でもない山の斜面、岩がいくつか顔を覗かせている所が、お参り出来るようになっていた。どうもこの山自体が信仰の対象になっているようだった。

そう考えた時、山の麓に古墳があるのも納得だった。その古墳は瓢箪山古墳と言う。

瓢箪山古墳
(画像はネットより)

4世紀後半に造られたとされる県下最大かつ最古級の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。1989年に雪野山古墳が発見されるまでは、滋賀県で最大の前方後円墳であったそうだ。


仏教が日本に伝来する前に多くつくられた前方後円墳。


そもそも何故古墳が作られたかというのは諸説あるようだが、梅原猛氏によれば「古代人が古墳を作った理由は山になろうとしたから」と言う。自然の山そのものが神であるので、その神である山になるのが古墳なのである。
 
 
山の麓に古墳があるという事は、その山自体が元々信仰の対象であったので、その山の神になる、あるいは同列になるという発想だったのだろう。
 
 
山を切り開いてまで寺院を作ったのは大変な労力であったと想像できるが、何故そうまでして桑實寺を建てたのかは、元々この山とその周辺が霊地だったからなのだ。


そんな古代からの霊地に、後からやって来て城を建てたのが織田信長である。


経営者やリーダー的な地位にいる人は、戦国期の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では信長を好む人が多いらしいが、個人的には信長という人物は革新的な面もある一方、恐ろしさもある人物だと思う。


特に滋賀県の古い寺は、織田信長に燃やされ、後に再興したという歴史が残っていることが多い。滋賀県の寺参りをしていると「ここもか!えっ、ここも?」と火を放った寺の多さに驚く。
 
 
被害にあったお寺全てに確認したことがないので分からないが、当時の大きな寺院は僧兵がいたので燃やしたと聞いたことがあるが、それ以外にも気に入らない寺は燃やしていたのではと思う。
 
 
信長の後、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は、死後それぞれ神となった。秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現だ。そんな二人と違い、織田信長は生きている間に自身は神であるという認識だったように思う。
 
 
桑實寺参拝の前に寄った安土城考古博物館には、1/1スケールの安土城が復元展示されていた。全部ではなく5階、6階部分だ。

安土城2

これが最上階の6階部分。金と漆の黒が映える豪華なお城だ。

安土城3

こちらが信長個人の部屋。

安土城1

この赤い漆塗りの部屋が、5階部分。


この部屋には絢爛豪華な壁画があった。意外だったのが寺を攻撃していた信長らしくない、釈迦と諸菩薩の画があったこと。

安土城4

それと古代中国の殷を打ち滅ぼした、周の王様が描かれていた。周の王様は伝説の名君とされている。


信長は釈迦や周の王様を尊敬していた訳ではなく、それよりも自分が上であると考えていたのだろう。だから自分の部屋を上の階に設けたのだ。


歴史上の城の中でも、特に豪華で珍しい造りの安土城。そんな安土城も築城して3年で焼失してしまう。


私はてっきり信長を討ち取った明智光秀がやったのかと思っていたが、調べてみたら諸説あるようで謎になっていた。


寺に火をつけまくっていた織田信長は、皮肉にも寺で炎に包まれて最後を迎える。


復元された安土城の壁画、古代からの霊地に古墳を見下ろすような場所に築城するということから考えても、自分が偉い、自分こそ神であるという信長の考え方が伺える。
 
 
しかし、そんな考え方は人だけではなく、神をも敵に回すことになってしまったのではと思いました。


おしまい



2018-06-04

◆桑實寺と安土城  前編

休日を利用して滋賀県にある安土城考古博物館に出かけた。

こちらには近くに安土城の趾があり、博物館内にも安土城を一部復元した原寸大の建物がある。

桑実寺1

「武将達は何故、神になるのか」

という展示会を観るのが目的だ。

展示会図録


内容は大変面白く判りやすいものであった。

観覧後、前から知ってはいたものの、中々行く機会に恵まれなかった、博物館裏手の山中にある「桑實寺(くわのみでら)」にお参りに行くことにした。


桑実寺2


桑實寺へ向かうには車では行けない。山の麓から続く石の階段を登って行くしかない。

参道は長くて疲れると聞いていたが、想像よりも長い石段だった。

桑実寺3


桑實寺は白鳳6年に創建された天台宗の古刹だ。

桑実寺4


しかし本当に長い。


桑實寺は天智天皇の勅願寺院として創建された。縁起によればその昔、湖国に疫病が流行し、天皇の第四皇女、阿閇姫(あへいひめ)も病にかかった。

姫は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見た。この話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明が差した。
 
この光明に当たった人々の病は治り、姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。
 

桑実寺5


山門が見えたので着いたかな?と思ったが、ここが入り口で更に階段が続いていた。門の脇に置いてあった竹の杖を拝借。


桑実寺6


真夏だったら水筒必須です。
 
桑実寺7


桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広められたことに由来する。私の職業にピッタリのお寺だ。
 
 桑実寺8

上の方にお堂が見えたが、こちらは地蔵堂だった。

更に階段は続く。

桑実寺9

お地蔵さんをお参りしがてら小休止。そしてまた歩を進める。

桑実寺10

参道を登っているのは私だけ。余計な物音は無く、ウグイスが鳴いていた。

天狗でもいそうな雰囲気だった。

桑実寺11

ようやく本堂が見えた。立派な御堂だ。

桑実寺12


こちらの本堂は南北朝時代の建物で、重要文化財に指定されている。山の一部を削った場所に建っているようだ。

桑実寺13

滋賀県のお寺参りをしていると、織田信長が火をつけたという話が沢山残っているが、桑實寺は信長の居城、安土城があったすぐ近くのお寺なので、流石に火はつけなかったようだ。
 
長い階段を登り切って目に飛び込んできたお堂は、大変素晴らしく美しかった。

本尊の薬師如来は秘仏であったが、その他にも密教寺院らしく多くの仏像が残っていた。

桑実寺薬師如来


こちらは頂いた案内に掲載されていた写真。

秘仏の薬師如来像だ。縁起によれば奈良時代の作と云われる。

御開帳は12年に1度。寅年に行われる。

寅年の春と秋に開帳するそう。具体的な日程はその年ごとに若干違うらしい。


帰り際、下山途中にある木の下を通りかかったら静かな風と共に、上から葉っぱがハラハラと結構な枚数が落ちてきた。光が反射して、何ともいえない美しさで見とれてしまいカメラを向けることも出来なかったのが悔やまれます。

自然と溶け込むような良いお寺です。ご興味のある方はぜひどうぞ。

※桑實寺はこちら



と終わる予定でしたが、今回はあまり興味は薄いですが、織田信長が築いたお城、安土城についても少し触れたいと思います。



2018-05-12

◆大阪・四天王寺

今年の4月。かねてよりお参りに行きたかったお寺、大阪の四天王寺に出かけた。

四天王寺③

想像以上に大きなお寺だった。

日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。


推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。


とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺⑦


四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。


その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。


四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
 
 
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

四天王寺④


この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。


この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。


敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。

太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。


もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

四天王寺②


この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。


守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。


一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。


後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。


四天王寺①


直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。


空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。


仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。


四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。


昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。


その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。


そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。


四天王寺⑤

石舞台だ。


四天王寺⑥

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。


聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。


1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。

御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。


聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。




プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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