2017-05-28

◆神社のお参りの仕方 その9  ~内の神~


⑤普段から自分や周りの人、ご先祖を大切にしていたり、言葉に気をつけたりしている人



前回でもし自分が神社の神様だとしたら、願掛けをした場合、どんな人に助力したいと思うか?をざっと思うままに書き連ねた訳だが、その中で上記の⑤を補足したいと思う。


周りの人やご先祖を大切にというのは、改めて言う必要もない当たり前のことと言えるが、あえて「自分」を最初に持ってきた。


何故「自分」が最初にあるのか?そのことについて、今年の3月、実際に参加したとある茶会を例に話をしてみたい。


知り合いのKさんから、愛知県のはだか祭で有名な神社、国府宮境内にある建物、「儺追殿(なおいでん)」にて茶会があるので参加してみませんかとご案内を頂いた。


国府宮さんのHPによれば、


~儺追殿とは、はだか祭の神男が、祭りの前に身を清める為、三日三晩過ごし当日の神事の場所として代々使われてきた神聖な場所~


とあった。なかなかそんな場所へ入る機会もないなと、これも何かの御縁と参加させて頂いた。かなりの人数が参加する茶会で、1席100人位はいたと思う。


自分が座った場所は、丁度神前であった。しばらくしてお点前が始まり、奥からお客様用の茶が運ばれてきた。それを見て驚いた。天目台に載った天目碗だったのだ。



天目台と天目碗
(天目碗と天目台 画像はイメージ)


天目碗とはお茶会で一般の人が飲むということはまずない。流祖忌や神様に備える献茶などで用いる茶碗で、最も重い、格式の高い茶碗だ。故に天目碗を乗せる台もある。確認した訳ではないが、もし天皇陛下がお茶会に来られたら、陛下には天目碗で出ると思う。


その格式高い茶碗が、100人もの客全員に出されたのだ。これには驚いた。正客から最後の客まで全て同じなのである。


天目碗を出されたのも驚いたが、これを飲む所作も分からないので隣を見ながら真似していた。幸い分かっている方だったので教えて頂いたので助かった。


茶会の中で、何故天目碗が全員に出されたのかの説明は一切なかった。ということは自分で考えなさいということだ。


帰り際、Kさんと会えたので、今回の茶席に使われた道具について尋ねたが、Kさんが所属している松尾流のものではなく神社側が用意したことが分かった。つまり、全ての客に天目碗を出したのは神社側の意向であるということだ。そうなった理由があるのだ。


しばし考え結論が出た。天目碗は茶会に参加した客に出されたものであるが、その本質は客に出されたものではない。ようするに、お茶を飲んだ人の中に眠る「神の御魂」に出されたものだったのである。(と理解しました)


神道の考え方では、人それぞれ皆、神の御魂を内に秘めている。神から分かれた神の一部を持っていると考えるのだ。それを内神さまと言う。それに対して神社などに祀られる大きな神を外神さまと呼ぶ。同じような考え方で、仏教では人の内にあるそれを「仏性(ぶっしょう)」と言う。


この茶会で、私は国府宮の大神さまに、


「人それぞれ、神の御魂を分け与えられ、それが誰の内にもある。それを忘れるな、それを知れ!」



と一喝されたように感じた。人それぞれ育った環境は違うし、学んで来たものも全部違う。誰もが持っている神の一部は、人によっては自分の長年の考え方で隠れたり、曇っていたりする。そうなると自分が神の一部を既に持って生まれて来ているということには気づけない。


神様の助力を頂くには握手をせねばならないから、まずは自分の中の神の部分をしっかりと自覚し認めることが先決となる。


回りの人を大切にするというのも、これと同じで全ての人間は神の御魂の一部を持っているから、人を大切にするというのは神様を大切にするということにもなる。因みに仏教の天台宗では「一木一草皆仏」というからこれも凄い教えだ。


ご先祖も同じだ。ご先祖を敬い大切にすることは神様を大切にすることにも繋がる。また、神社の神様の中には自分の先祖神(直接の場合や、ご先祖が代々お参りしていた神様)がいる場合もある。


現実世界、こと日本という社会で生きていく場合、人との関わりなしに生きてはいけない。そうであるなら「言葉に気をつける」と言うのは大切だ。酷い言葉、傷つける言葉、恨みの言葉などは人に宿る内神さまや、自分の中の内神さまを傷つけることになる。


また言葉の力は凄いので、自分の運命を良い方にも悪い方にも変える。また神社などで荒ぶる神を挑発するような言葉を使うと、その言葉を受けて喧嘩を買ってくる神様もいる(衰運になる)ので、言葉と言うのは本当に気をつけたいものです。




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2017-05-18

◆神社のお参りの仕方 その8 ~相手の立場で考えてみる~ 

このように一言に神社と言っても様々な神々がいる。願い事をしてはいけない神様もいる。


前回のグループ分けで、この神様だったら願い事をしても安心と言えるのは、⑥の仏教系の神様だと思う。


何故そう思ったかと言う話は次回以降にするとして、まずは何か願い事がある場合、一体どうしたらご助力頂けるか?を考えてみたい。


どうしたらご助力頂けるか?


こんな時は相手の立場になって考えると分かり易いと思う。そう、もし自分が神社の神様だったら・・・と。そうしたら次のようなことが出て来た。


①神や仏はいると心から信じている人

②素直な気持ちで感謝の念をもっている・感謝の言葉を日々発している人

③お札を分けてもらってお祀りしていたり、何度も足しげく神社に通ってお参りしている人

④願ったことに対して頑張っている人

⑤普段から自分や周りの人、ご先祖を大切にしていたり、言葉に気をつけたりしている人

⑥明るく元気な人、前向きに考えられる人。

⑦住んでいる家(部屋)が片付いている人・清潔な人



となった。まず①だが、神社や寺へお参りに行ったことがあるという人、あるいは仏像や神像が大好きでよく見に行くと言う人達の中で、本当に「私は〇〇神や〇〇菩薩、〇〇如来に信仰を持っています」と自信をもって言える人は意外に少ない。


何時だったか龍神からメッセージを頂いているというスピリチュアルなお仕事をしてる方に会った時、「何か信仰は持っていますか?」と尋ねたら、ハッキリと「信仰はありません」と答えていた。これには衝撃を受けた。


スピリチュアルを仕事でしていると、変に宗教団体くさいと思われるのが嫌なのでこう言ったのかもしれないが、こと神社の神様を味方につけようと思うのであれば、「存在する」とまずは信じねばならないし、認めて感謝し、お参りすることだ。そんな気持ちになることが信仰するということだと思う。信仰=怪しい宗教団体に入ることと考えている方が多いように思うが、これはそうではない。


神様の力を戴くと言うことは握手ににていると思う。こっちがいないと否定し手を伸ばさねば握手は出来ないのだ。①について補足するならば、相手を知るということも必要である。


②と③は関連している話だ。②についてだが、やはり自分が神様だったら、いつも感謝し、お礼を言ったり、良い言葉を使っている人には応援したくなると思う。


③についても日々の習慣として続けることで、よりがっちり握手することに繋がるのではと思う。見方を変えれば、覚えてもらえるということが必要とも言える。②や③は関係性を強固にすることでもある。


例えば初めて行った神社で、相手がどんな神様なのかも知ろうともせず、手も清めずに賽銭箱に10円入れて「金持ちにしてください!」と言っても、言われた神様からすれば「あほかコイツは!」と思うだろう。少なくとも私が神様だったらそう思います(笑)


④や⑤は特に重要だが、やはり一生懸命生きている人は自然と応援したくなる。例えば何気につけたテレビで高校野球が放映されていると、ついつい応援していたと言うことはないだろうか?
 
 
知り合いや親せきが出ている訳でもないのに、気付けば見ていたり応援していたりするのは一生懸命やっている球児達に惹かれるからだ。


もし神様に何かしらお願い事をしても、当の神様からしたら、その人が本気で願い、全力を尽くしている状態じゃないと、とてもサポート出来ないのである。神様だから本気かどうかはすぐバレます。


⑤もとても大事だ。これは運の話にも繋がってくるが、普段から自分や家族、ご先祖、周りの人への対応や言葉の使い方は大変重要だと思う。これに関しては次回で考察したい。


⑥も程度によるが、あまりにも元気がなかったりネガティブだったりすると、神様どころかヤバイものが憑いたりする。憑かなくとも自分の念で体調を崩したりするので、何れにせよ心配しすぎ、悩みすぎというのは良くない。またそんな良くない状態の人が部屋に籠り続けると、自分の部屋に化け物を育てることにもなる。(そんなことが記されたお経があった)こんな状態では握手どころではないと思う。


⑦は自分の部屋(家)とは、祀ってある神仏・自分の想い・言葉・感情によっては快適な神域にもなるし、化け物が育つ陰気な場所にもなりえるということ。特にお札を戴いて祀る時は綺麗にしておくのが圧倒的に良いが、ない場合も綺麗にこしたことはない。神様は穢れを嫌うと言うが、何かの本に「穢れとは気が枯れること」とあった。
 
 
自分で自分の生活している空間だと分かり辛いかもしれないが、営業職であちこちの家を渡り歩いている人だと分かると思うが、自然と「居心地が良い家だなぁ」とか「何か居心地悪いなぁ」とか感じることがある。


住んでいる人の生活習慣によって、箱(家)の中身は変わるのだ。居心地が悪いと言うのは気が枯れているとか、滞っている、悪い念や酷い言葉の力が籠っているということだ。


ざっと思ったことを述べてみたが、細かいことを言えばもっとある。要は「どうしたら相手が喜んでくれるか?」を考え、実行することが重要なのだ。


長くなってきたので今回はここまでとします。



江の島弁財天社

※画像は江の島の弁財天社 気持ちのいい神社というよりお寺かな?
2017-05-14

◆神社のお参りについて その7  神社の種類

お寺の仏さまと違い、神社の神様には基本的にはお願い事はしない方が良い・・・と私は思っていたが、ここ数年、条件次第ではそうでもないのでは?と思えて来た。


そこで今回のブログテーマは神社のお参り、もっと絞って言うと、「神様にお力添えを頂くにはどうすれば良いか?」についての私なりの考察を紹介してきた。


A:まずは神様と仲良くなること。 

B:相手を知ること。得意分野を知ること。

C:神と人の共存関係



と続けてきた。


ここで、もし神様と仲良くなって、「自分の望みが叶うよう後押しして欲しい」と望むのであれば、神社の選択となる訳だが、これが実はとても重要である。それはBに関連してくる話になるが、実は一言に神社と言っても、神社は大まかなグループ訳が出来る。


①自然を神として祀る神社

②天津神を祀る神社

③国津神を祀る神社

④地元神を祀る神社

⑤実在した歴史上の人物を祀る神社

⑥仏教系の神社

⑦陰陽道系の神社

⑧封じの神社



およそこの8種類に、どこの神社も当て嵌まると思う。②と③は古事記や日本書紀に登場する神様。④は僅かだが主に地方で見かけるが、その地域でのみ祀られている神様である。


「僅か」というのは、江戸時代以前は沢山あったと思うが、明治時代に政府の政策で、大幅に神社の御祭神に手を加えられているのが調べていて分かった。記紀神話に登場しない、それこそ聞いたことがない神様や、王権側に逆らった神様などは政府のターゲットにあい、徹底的に御祭神が入れ替えられたのである。


明治政府は廃仏毀釈といって、国家宗教を神道にすると決め、仏教や陰陽道、修験道などを徹底的に弾圧した。そして神社の神様も数え切れないほど排除された。今となってはもう調べられないほどに・・・。地方のとある神社では、本来の御祭神が小さな祠で、境内の隅の方でポツンと祭られているのを見たことがある。しかし、大多数はもう分からなくなっていると思う。


⑤は有名なところだと、菅原道真公や徳川家康公などだ。他にも加藤清正や吉田松陰、他にはもっと近年の人物もいたりする。


⑥は稲荷神や弁財天などが該当する。京都の伏見稲荷や、奈良県の天河神社などがそれだ。


⑦の神は牛頭天王やその御子息の八王子だ。疫病の神であり、大変恐ろしい神様でもある。個人的なお願い事などしてはならない神様達だ。ただ奉り、無事毎日過ごせていることに感謝する神々だ。


そして最後が⑧、一種の呪い、封印目的で創建された神社である。天神様で有名な菅原道真公は恨みをもって亡くなり怨霊神となったが、祟りを恐れた人たちが道真公に敬意を払い、徹底的に祀ったおかげで怒りも徐々に納まり、現在では学問の神様となった。しかし、このケースは祟りまくる怨霊神を祀ることもせず、より強い力をもった神で封印してしまうのである。

 
近隣に住む人達からすれば、祟りは治まるが祟る相手は供養されることなく、ただ封印されるだけという何とも辛い神社だ。こういう世界に興味を持ったことが発端で知ることになってしまったが、封じの神社を移築、もしくは取り壊すと中に封じられたものが一気に現れ、周辺に様々な不幸を齎すということがある。


殆どの人達は、封じの神社の見分け方はつかないと思うが、長年父と共に神社について調べている内、封じの神社の見分け方というか特徴に気付いてしまった。


知った所で気の毒で辛くなるだけであり、何ともしようがないので、とても話をすることは出来ないが、封じの神社というのは想像以上に多いのである。


そう、日本の闇の歴史は、祟りと封じの歴史とも言えるのだ。


ざっと簡単にであるが、神社のグループ訳をしてみたが、神社によっては「お願い事などもってのほか!」という神様がいるのである。実はこれが、『神社では、あまりお願い事はしない方が良い』という理由だと私は思う。よほど注意深く観察し調べないと、なかなか荒ぶる怖い神というのは分からないのだ。


天河 ②

※画像は奈良県の天河弁財天社。超気持ちの良い神社です。
2017-05-04

◆神社のお参りについて その6  神と人の共存  

観光地化している大きな神社(伊勢神宮・熱田神宮など)から、地方にある古社、地元の人も殆どお参りしていないのでは?と思える寂れた神社、あるいは本当に小さな祠だが、規模の割にお参りする人が度々ある神社など、気になるところはお参りに出かけまくっていて気付いたことがある。


それは神社で感じるものの違いだ。非常に清々しい所もあれば、ここは二度と来ない方が良いという所もある。

 
中には参拝目的で出かけ、その異様な雰囲気に尻込みし、気合を入れて「さぁ!行くか!」と参道石階段の最初の一段に片足を乗っけたら、突風が吹いて山が唸りを上げ、「すいません。また来ます」と一目散に撤退した神社もあった。
 
 
何と表現したら良いか、神社によって神様の機嫌が良い・悪いがあるのである。


実際に今も現存している神社なので社名は控えるが、気になった各神社を元に神様にとって機嫌の良い・悪い理由を纏めてみる。


◎居心地が良い神社

・しっかり神域内が整備されていたり、掃除が行き届いている。
・参拝客が多い。
・神獣が御祭神の性質に合っている。
・森がしっかりと残っている。


◎居心地が悪い神社

・神域内が汚れている。整備が行き届いていない。
・参拝客が少ない。
・神獣が御祭神の性質に合っていない。
・神社側が手放したのか森が少ない。
・本殿の真後の森が一番大切だがそれがない。公園になっていたケースもあった。
・建物の配置を変えたり、本来はいらない後付けの噴水や記念碑がある。


神獣が御祭神と合っていないというのは、例えば神社には狛犬というものがあるが、御祭神が稲荷神であるにも関わらず、狛狐ではなく狛犬を祀っている神社があった。


稲荷神は犬を苦手としているので、狛犬は祀ってはならないのである。(過去ブログ参照


それと、三河のとあるこじんまりとした古社(奈良時代創建:姫神を祀る)にお参りに行った時、地元の20代前半の女の子達が、神社で待ち合わせをしている光景に出会ったことがある。
 
 
神社の入り口が広くとられている為、車を境内に乗り入れできるようになっているが、あろうことかその女の子達は自分達の車を本殿直前に停車させ、しかも排気ガスが出る方を本殿に向けていた。エンジンは掛けっぱなしで・・・。


あまりのことに呆気にとられてしまい、注意することも忘れてしまったが、撮影した写真に怒りの兆候(気味の悪いグレー色の長い影)が写っていた。その後彼女達がどうなったのかは知らないが、きちんとお詫びをしないと大変マズイ結果になるだろう。
 
 
このように、居心地の良い神域・悪い神域というのは、人の関わり方に左右されると言って良いと思う。


そう、神と人とは共存している関係なのだ。神ありきの人であり、人ありきの神なのである。


居心地が良いということは、神様の機嫌も良い、となればその神様の力も強いということになる。神様の力が強くなれば、自分のテリトリーに及ぼす力も強くなる。そうなれば氏子を疫病神から守る力も強くなるということだ。


神社周りをしていて、人のお参りする数、質が神様の力を大きくしているのでは?と気づいてから、それが確信に変わる出来事があった。日本の神社ではなく、新婚旅行で訪れたギリシャのパルテノン神殿だ。。

 
元々古代遺跡には興味があるので、大変わくわくして出かけたのを覚えている。確かに遺跡としては素晴らしいものであったが、そこには感動は無かった。神社やお寺で感じるような、何かいるという感じは全然しない。オリンポスの神々は居なくなり、もぬけの空という感じだった。箱だけで中身が無いのである。


パルテノン神殿


 
それは現在のギリシャの宗教に関係していた。あまりに何も感じなかったので、現地のガイドさんに尋ねてみた。帰って来た答えを聞いて納得した。

 
現在のギリシャの宗教はギリシャ正教(キリスト教系)が圧倒的に多く、ギリシャ神話の神々はとうの昔に信仰の対象ではなくなっていた。空になった神殿と感じたのは、誰もオリンポスの神々に祈りを捧げていないのが原因だったのだ。


神社の神々、特に小さな祠はそうなりがちだが、お参りする人がいなくなると神の力も弱くなったり、祠の撤去と共に帰ってしまうのだと思う。(場合によっては、祀ってある神様の性質にもよるが、全くお参りしない、管理が出来ないと荒ぶる神となることもある)

 
しかし、日本にはギリシャとは違い、神話の神々が今尚信仰の対象になっている。これは凄いことなのである。


続く~
2017-05-01

◆神社のお参りについて その5 (氷姉子神社 後編)

氷上姉子神社にも、古事記や日本書紀にも載っていない、宮簀媛命に纏わる昔話が萱津神社にはある。

それが萱津神社に今も残る霊木、「連理の榊」に纏わる悲話だ。

萱津神社の森には別名がある。「不遇(あわで)の森」だ。


萱津の地へ訪れた日本武尊の一団。

休息を経て伊吹山の神に戦いを挑むも、日本武尊は破れ大怪我を負う。

撤退した一団はまた萱津の地へと訪れる。


日本武尊の怪我は酷く、尊は「再び立つ事が出来なくなるなるのでは・・・」と直感し、久米の八腹(くめのやばら:食事の世話をする者)を妻である宮簀媛命のもとへ遣わされ後事を託された。


報せを聞いた宮簀媛命は取るものもとりあえず萱津の地へ向かったが、到着する頃には既に日本武尊は伊勢へと向かった後であった。宮簀媛命は最後に会えなかったのである。


宮簀媛命は人目も憚らず、悲嘆された。


その悲しみの姿から、誰云うとなく「不遇の森」というようになった。



日本武尊は、伊勢へ向かうにあたり、姫に会えないことを非常に残念がり、後の世に生まれ来る者に、再びこの悲しみなき様にと祈願を込め、雌雄二本の榊をお手植えされた。

 
後にこの榊は地上2メートル程の所で繋がり、これが御神木「連理の榊」となった。


萱津神社4


連理の榊は現在は祠の中に祀られている。中を覗いて見たが枯れてしまっていた。

数え切れない人達の願いを受けすぎて枯れてしまったのだろう。


古事記を見るに、日本武尊が、伊吹山の神に敗れた理由はいくつか推測できるが、その一つが現在熱田神宮の御神体になっている三種の神器の一つ、草薙の剣を持っていかなったことが挙げられる。


この時の尊と姫のやり取りを読むに、姫は尊に草薙の剣を持っていって下さいと話すが、尊は伊吹山の神を侮っていたので素手で十分と持って行かなかった。


宮簀媛命はそのことも後悔していると思える。


やがて宮簀媛命は、日本武尊の形見ともいえる草薙の剣を祀る神社を建てる。それが現在の熱田神宮だ。


姫は尊への愛を貫き生涯独身であったという。


神社の神は自然そのものでもある場合もあるが、圧倒的に多いのは元人間、あるいは神話の神でも本当は人なのでは?と思える生々しい背景を持つ神々だ。


私が初めて氷上姉子神社を訪れ、不思議な体験と御神体の写真を頂いてから、神はいると強く認識するようになり、次に偶然訪れた萱津神社では宮簀媛命の秘話を知った。


日本武尊に滅ぼされた神々は多い。本当に悲惨だ。しかし、滅ぼした側の日本武尊も地獄のような戦場に休む間もなく駆り出された。そこには親の愛情は見えない。


滅ぼす方も滅ぼされた方もどちらも悲惨なのである。


宮簀媛命の秘話を知り、この神様の御利益、お力も見えて来た、それは、


①夫の日本武尊が願ったように、縁結びの御力添えを頂ける。

②シングルマザー(女性一人)として生きて行こうと頑張っている女性がお参りすると、お力添えを頂ける。(理解を示されると思う)



ということだ。ただし、①についてだが略奪愛とか不倫とかには全く理解されないと思うので、どこかずるい考え方を秘めて成就を願う人だと、怒られる可能性があると思います。あくまで真面目な恋愛成就に限りと付け加えておきたい。




続く~




プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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