もみじの記録帳
古き良きものや、日々の気付き、思ったことを気ままに記録しています。
最も神聖な場所
氷上姉子神社の周辺には他にも好奇心をくすぐられるものがある。まずは本殿の鳥居を潜り道路を挟んである小さな山(ここが元宮のあった場所)と広大な境内の外れにある名和古墳群、そして元宮のある山続きにある斎山稲荷だ。

初めて訪れた時、写真を撮った後、山頂にある元宮に行ってみた。途中2,3箇所御社があり頂上につくとそこにも御社がある。元宮の場所に足を踏み入れた時、感覚的な話で分かり難いと思うが、凄い圧力があった。前に紹介した首狩神社とは違う怖さではなく、畏れ多いというか無礼な真似は絶対出来ないというか問答無用の神々しさを感じた。
(説明が難しいなぁ
建物の大きさで言えば、先の本殿のが遥かに大きくて立派である。しかし山頂の小さな社の方が比べ物にならない位の巨大な力のようなものをビンビンに感じた。

氷上姉子神社は正月三が日のうち何れかで、参拝に行く事にしている。

※古墳群と斎山稲荷については後日アップします。




片目と片足
全国に残る民話や伝説の内、製鉄集団・蹈韛(たたら)に関係あるものには共通項がある。それが片目・片足の伝説だ。

片目の鯉、片葉の葦、桃太郎、大蛇退治で目を射られて絶命する話など沢山ある。蹈韛と片目片足の伝説の関係については、以前読んだ本にこんな事が書いてあった。
その昔、蹈韛衆は鉄を溶かす際に風を送る為、鞴(ふいご)を利き足で踏んだり、溶鉱炉内の具合を片目で見たりしていた。その為足や目を傷めやすかった。職業病という訳だ。

「もののけ姫」というアニメ映画で山奥に住む蹈韛衆が登場し、鞴を踏む場面があったが、あれをイメージすると分かりやすいと思う。

氷上姉子神社で御縁を頂いたあの写真を観るに、片目で御姿が現れている。これは熱田の神が製鉄を生業とするという意味と、こちらに分かりやすい様に教えてくれたのではないのだろうか。

不思議な写真は今迄も目にする事があったが、厳しくも神々しいあの写真は御神体の宮簀媛命(みやすひめのみこと)だと思えてならない。

熱田の元宮
神社を調べるといってもテーマがある。その一つに太古の製鉄集団、蹈韛(タタラ)がある。今で言うところの石油のように当時は貴重なものだった。鉄があれば銅剣よりも強い鉄剣が作れたりするからだ。

熱田神宮も鉄を生業とする神だ。数年前、この熱田神宮の元宮が名古屋市緑区にある事を知った。千数百年前、熱田神宮が現在の地に引っ越しする前の名古屋を代表する古社だ。社名を「氷上姉子神社」という。

初めてここに訪れた時の話。境内に入り本殿を見た時、凛とした空気を感じた。ここは丁寧に参拝しないと怒られるなと直感したのを覚えている。手を洗い、口を濯ぎ塩で清めてから本殿前で手を合わせた。参拝客は私一人だ。その時、ふと言葉で発音していた。内容は自分の住所、氏名、仕事、参拝の目的(名古屋で商売していて今迄尾張の神様の元宮に来たことはありませんでした。ありがとうございます。執筆の関係でお写真を2,3枚頂きますというようなこと)を述べた。

参拝後、3枚写真を撮った。一枚目は本殿を。二枚目は本殿脇に設置してあった御祭神の簡単な謂れ。三枚目は鳥居の横にあった大きな御影石に彫ってあった社歴だ。三枚目の写真を撮った時、デジカメに異変が起こった。画像がビデオのコマ送りのようにぶれるのだ。頭も痛くなってきた。もし怒っているのなら写真を撮らせてくれないだろうと思いつつ、ボタンを押したら普通に撮影する事が出来た。一巡して神社を後にした。不思議と鳥居を潜ると頭痛が消えていた。

帰宅し写真を印刷してみた。異変があった三枚目に驚くものが写っていた石の社歴のちょうど真ん中、カメラ目線でしっかりと真っ白な光輝く片目がそこにあったのである。
T市のS社
以前このブログで最も感動した神社として、岡崎市のソラにあるスサノオ社を紹介したが、反対に最も怖かった神社を紹介したい。このブログを見てくれている人が、万が一興味本位で行かれても困るので、社名は避ける事にする。(今迄も社名を避けた神社はそれなりに怖いところ)
T市の外れ、とある山に設置されたS神社という古社がある。奈良時代創建で、変わっているのが山の下、真ん中、上と同じ社名の神社があるという事だ。山一つまるまる神社の境内になっている。

この神社、地元では首狩神社と呼ばれているらしく、廃墟や神霊スポットばかり探索している奇特な方達のサイトでその存在を知った。現在このサイトは閉鎖されている。

昨年の正月休みを利用して、人っ子一人いない暗い山道を車で走らせ入り口に到着した。心霊スポットとしても有名らしく、社名を彫った石の看板(何て言うんだろ?)に落書きがしてあった。

入り口から参道を見上げると尋常ではない異様な雰囲気がある。昼間なのにもの凄く暗い。意を決して階段に足を乗せた瞬間、突風が吹いて山が唸った

自分の中で警報がなったと思った。「この装備じゃ駄目だ」神社にお参りに行って始めて参拝せずに帰ってきた。

何れここには再訪しなければならない。

未知との遭遇
〜「古社にて」の続き〜

そこにはヤマトタケルの伝説が残った、注連縄がしてある遺物があった。そこで父は写真を撮った訳だが、その場での出来事だ。父の真横に大きな顔があり(当然、私には見えない)脳裏に語りかけてきた。以下その時のやり取りです。

今度ここに来るときはそれ(消災陀羅尼経)を置いてこい
「持たずに来たらどうなるんですか?」
お前を喰らう
「何が望みですか?」
俺は首しかない。身体が欲しい
「…お断りします」

後で聞いたらこんなやり取りがあったらしい。人間サイズの大きな腐敗した「首」だったそうだ
途中で元気が無かったのはこれが原因だった。私を怖がらせるといけないので黙っていたそうだ

撮影した写真を現像した。とのやり取りがあった場所の写真には不気味な明らかに自然のものではない黄土色の大きな「影」が写っていた。

お稲荷さんが教えてくれた「消災陀羅尼経」、真に役に立った瞬間だった。

神社は謙虚な気持ちで参拝しましょう。

古社にて
消災陀羅尼経を身に付けるようになってから、乗りに乗った執筆を続けても、不思議と寝込むような事はなくなった。

お告げの夢を観てから暫くたったころ、愛知県の某所にヤマトタケルの伝説が残る古社をネット検索していて見つけた。二人で行ってみることにした。神社に興味を抱いてから、今迄何箇所も訪れたが、荒れている神社も少なくない。街中では特に見かける事が多いが、神社の後ろにあるべき「森」がなくなっていることがある。日本の場合、神が降りるのに欠かせないのが「木」だ。社殿の後ろの森は無くてはならない大切な場所なのに、潰されて民家になっていたり、公園になっていたりする。

この古社もそうだった。参拝をし※1写真を頂いた。少し疲れるところだなと思いつつ、取材を終え神社を後にした。父は私以上に寺や神社が好きである。そこに行くと元気になるのに、古社に行って暫くして急に元気が無くなっていたので帰宅してから聞いてみた。

とんでもない事がおきていた。

〜続く〜

※1本来、神社での撮影はしない方がいいです。気をつけた方がよい作法はまた紹介します。 
千手千眼観世音菩薩廣大円満無礙大悲心陀羅尼
〜消災陀羅尼経の続き〜

事の発端は7年前に遡る。※1赤芽球癆(せきがきゅうろう)という病で父が入院していた。何とか励まそうと、ちょうど36年ぶりに御開帳となった、京都の清水寺の本尊、千手観音を母と参拝に行く事にした。平安時代の木彫の素晴らしい仏像で、父の病気平癒を祈願してきた。

お寺で頂いたパンフレットを病院の父に渡した。それに目を通した父は、千手観音のお経、「千手千眼観世音菩薩廣大円満無礙大悲心陀羅尼(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつこうだいえんまんむげだいひしんだらに:長っ!)」があると知り、これを読みたいと言って来た。

このお経を手に入れるべく、まずは清水寺に問い合わせたが、電話口の人に「何に使われるんですか?」と逆に質問され、事情を話したら「当寺院では販売しておりませんので、こちらに問い合わせて下さい」と連絡先を教えてくれた。そこに電話をしたが「聞いた事が無い」と言われ、次の問い合わせ先を聞いた。よほど特殊なお経らしく「無いのでここに聞いて下さい」という返事が3件ほど続いた。最後に電話した所が、京都のお経専門の版元だった。そこで上記のお経を見つけることが出来た。

探していたお経が入った「真言諸経要集」というお坊さんが読むようなぶっとい経典をこうして手に入れる事ができた。

話は戻るが、紅葉稲荷大尊天が教えて下さった「消災陀羅尼経」は7年前に清水寺のご縁によって入手した「真言諸経要集」の中に入っていたのだ。

やがて退院した父が、神社の真実について筆を取ることになる。その時にこの「消災陀羅尼経」が必要になる。先を見越したお稲荷さんの「事前準備」がこの時なされたんだなぁと今は思っている。


※1赤芽球癆…原因は15年続けた白髪染めでした。髪を染めた後、何か調子が悪いなと言う方は直に染めるのを止めて下さい。怖い病気です。


消災陀羅尼経(しょうさいだらにきょう)
「白旗稲荷外伝記」を書き始めてから、父は定期的に寝込むようになっていた。筆が走り、乗りに乗ると体力をごっそりもっていかれるのだ無論、助力して下さる白旗稲荷に敵意はない。しかし、受け取る側が専門的な修行を積んでいないため、力をもろに貰ってしまうのだ。

そんな状況を危惧し、父の夢枕に現れた方がいた。縁があって我が家でお祭りするようになった「紅葉稲荷大尊天」だ。夢枕には眷属(けんぞく:今でいう部下)が現れたそうだ。

眷属が語った事は二つ。一つは執筆する時は自宅ですること。家の中は結界が貼ってあるので悪意あるものは入れない。
もう一つは肌身離さず「消災陀羅尼経」を常に身につける事。眷属はこうおっしゃったそうだ。
「神社の事を書き始めると、貴方に好意を持っている神々ばかりではなく、中には敵意を持っている神々もいる。本を完成させるには、これから様々な神社に行かねばならない。後者に出くわしたら人間など簡単に命をとられてしまう。そんな時の為にその経を持ちなさい」

翌朝、起床した父は私に観た夢を語り、お経の事を聞いてきた。そんなお経は知らないないと言うのだ。我が家は本願寺系の宗派でその経典には「消災陀羅尼経」はない。そんな時、私はふとその経典が家にある事を思い出した。家捜しする間もなく、そのお経は現れた。

続く
日本語
10回以上に亘って連載した地蔵寺縁起書導入部はこれにて終わる。今尚続きは執筆中だ。父の書いたものをワードで変換しているが、筆が走っていると文章に特徴が出ることに気付いた。ブログ前回分(最終回後半)を読んで気付かれた方はいただろうか?文が5や7で区切られているのだ無論意識していた訳ではない。赴くままに任せている。

言霊の話が縁起書でも紹介されたが、稲荷の霊歌しかり、古来「万葉集」や「新古今和歌集」などでも沢山の歌を日本人は詠んできた訳だが、日本語の最も美しく聴こえる状態が「5,7,5,7,7」のリズムだと感じた。稲荷の歌について考えていたら、ふと思った事がある。前述の有名な歌集は全然読んだ事はないが、「言霊ありき」でこれらの歌集に目を通したら、神々を讃える歌やある種の「呪詛」に因んだ歌が出て来るかもしれない。
地蔵寺縁起書紹介 最終回
平成十七年乙酉七月七日          瑠須庵
とうとうお読みになりましたね。七月七日、七首の歌の、狐の霊言

「にこしかにこそ」が言霊と
安倍晴明申します。
これを、お読みのそれ其方
地蔵寺の御本尊
延命長寿の地蔵尊
オンカカカ オンカカカ ※1
笑ひ声も響きます。
お家繁盛まちがい無しと
白旗稲荷の大明神が
太鼓判を押されます。
白旗靡きてハタ、旗、秦と
ありがたや ありがたや

古代、日本人にとって言葉は霊であり、霊は言葉であった。そのように信じておりました。古代人はこれを言霊(ことだま)と申しておりました。本文最後の行に七月七日七首の歌、狐の霊言(れいごん)とありますが、次なる行には「にこしかにこそ」が言霊と逆さまになっておりまする。これはその前に「そこにかしこに」の七文字をそのまま逆さにしたものです。
地蔵寺縁起書霊験檀、その後の続きは如何なるか。それらの総てのお話は、これをお読みのそれ其方、檀信徒の皆様と御総代のご信心、延命地蔵と白旗の慈悲とお徳を戴いて、その後のお話書き綴り、尾張名古屋一番の霊験地蔵の、おん寺となりて白旗ハタハタと五月の空にはためいて、歌の一首を今ここに、歌って舞い上げ仕る。

瑠須庵が 舞うや仕舞いの 舞い納め
鼓は※2品(ほん)と 扇は礑(はた)と

瑠須庵に 皆騙されて 来て見れば 地蔵はカカカ 稲荷はるふふ※3

                                  合掌


※1オンカカカ…「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」の略。地蔵菩薩の真言。密教では数ある菩薩、如来に手を合わせる時、それぞれに適した言葉がある。この場合の意味は「私は地蔵菩薩に帰依します」というような意味。因みに「カカカ」というのは地蔵菩薩の笑い声とされる。
地獄に落ちた人間の魂を唯一救いに来て下さる菩薩が地蔵菩薩らしい。地獄の苦痛で悲惨な姿の人間を見た地蔵菩薩は気が滅入ると救える者も救えない。だから自信を奮い立たせるように大声で笑いながら助けにくると云う話を聞いた事がある。

※2品…普門品(ふもんぼん)の一章の名。そういうお経がある。

※3るふふ…稲荷の笑い声。るふふと笑う。

地蔵寺縁起書紹介 其の五
追記
大切な事を見過ごしておりました。玉圓尼様の七首の歌に、お稲荷様が隠れていたのです。驚きました。それぞれの歌の、最初の文字を七つ並べてみましょう。

知()らしめす
襤褸(んる)なる
礑(た)と見た
旅(び)立ちや
ざ付かん
成田(りた)かや
理不尽(ふじん)な

このようになります。一字づつ縦読み致しますと、なんとそこには「しらはたいなり」の七文字が出現致しました。更にこうも読めます。襤褸(ボロ)と言う漢語が使用されております。ここから各行の最後の言葉を詠み拾うとすれば、こうなります。

※1
歌に詠むとて    七
白き玉石      一
おん奇跡      五
思いもせず    二
雲浮く      三 ※三は三文字より上を見よとの仰せでした。
尻尾で隠す     四
益ます増して    ※増すばかりで一文字も取る事は無し
今また見せん    六

一より詠み下してみましょう。

玉石に 狐隠すや おん奇跡
今また見せん 歌に詠むとて

とこんな歌となりました。歌文字下の番号は「御玉転がし」秘行の数字、白狐の尻尾が指し示す。ころころころころ転がって、右に左に左に右に不思議な動きでございます。くるくるくるくる目も回る、ときます。まあ、こんな訳でして、歌意は大和に置いて来た、白い玉石にも稲荷の霊力を入魂した。その奇跡を歌に詠んでお見せ致そうぞ、との意味合いに取れましょう。全く摩訶不思議なる霊歌と申せます。最後に某の愚作の一首で締めまして終りと致します。これには、何の霊力もござらねば案心してお読み下されませ。

玉圓尼 七首の歌を 並ぶれば
稲荷の姿 そこにかしこに

〜続く〜

※1…「御玉転がし」を行うと、父の話だと最初に数字が浮かんでくるらしい。最近の小中学生は知らないかもしれないが、昔、学校で「こっくりさん」をしていた同級生がいた。これは簡易版の「御玉転がし」と言える。ただ、どんな霊が出て来るかわからないので、そういう意味では危険を伴う。
地蔵寺縁起書紹介 其の四
○六世戒心玉圓尼和尚の詠みし七首の歌

知らしめす 白旗稲荷の 呪法とは
ハタと飛び交い 歌に詠むとて


稲荷の呪法といえば「御玉転がし」白旗稲荷の御神号は、しら鳥がハタハタと舞い飛び歌を詠みて、その霊力と白旗の謂れを知らしめすと言ふ。

襤褸なる 纏いし衣の在の衆
残りし物は 白き玉石


襤褸(らんる)とは漢語でボロの意と聞く。ボロを纏った村人ですが、残ったお宝は白き稲荷の御宝玉、有難や有難や

礑(はた)と見た 大明神の おん奇跡
玉圓尼とて 思いもせずに


次々と起きる稲荷大明神の奇跡。しかし明治四十五年の火災で玉圓尼の詠みし歌帖も焼失した。その歌が今またここに再現されるとは。この奇跡、玉圓尼とて思いもせずに。

旅立や 稲荷背にしょふ 峠越え
五月の空に 狐雲浮く


大和の峠を越える玉圓尼の肩に確り寄り添う白狐、そのお姿が五月の空の白雲となって、玉圓尼にどこまでもどこまでも付いて行きました。

いざ付かん 半田の港の 賑わいに
白狐の霊ぞ 尻尾で隠す


半田の港に着きました。又、稲荷を置いてゆけと言われても困ります。又、眼力ある人に狐が背に付いていると言われても困ります。白旗稲荷の大明神は、ふさふさの太い尻尾をピンと真っ直ぐ立てました。もはや姿は誰にも見えません。玉圓尼を思う大明神の優しい思いやり、尼さんだけの一人旅に見えました。

成田かや 海老屋の不動 運ばれて
明神力の 益ます増して


尾張名古屋の地蔵寺にご到着の玉圓尼、ほどなく時代は明治の時代、文明開化となりました。そこへ海老屋の山本□和吉の、お不動さん。うんこらせっと運ばれてドンと鎮座ましました。恐らく成田不動でございましょうか。これで白旗稲荷の神通力も益すます増して、枡より溢れる御霊力。

理不尽な 廃藩置県の 悪政に
明神力を 今また見せん


廃藩置県のその時に、地蔵堂の土地まで召上げられた。何と理不尽な事でしょう。白旗稲荷、どうかどうかお力を。この七首の歌は、地蔵寺守護神、白旗稲荷の歴史をも語ります。
稲荷の呪法「御玉転がし」で、六世玉圓尼和尚詠みし歌を聞き取りましたが、今回は確り七首まで書き留めました。
稲荷の呪法「御玉転がし」は、平安の超人、安倍晴明や弘法大師がその修行中に考案したものとも言われますが、何れにせよ先人の残した文行を、一行二行その上から筆で準えれば、後の続きは自然出てくると云う摩訶不思議なる呪法である。

昔は「御玉転玉(みたまてんぎょく)」の術とも言われた霊狐の呪法でありますが、今、病み上がりの自分にとって、昔のように出来るとは到底思えなかったが、恐る恐る行じてみれば、これ程に上手く出来るとは、唯唯驚くばかりでございます。
その後、体は小刻みに震えるばかりで暫く何も出来なかったが、熟つら考えるに、深草、最上、白旗稲荷と三狐の霊の御力を戴き、それ故の事の結果と感じ入る次第であります。最早これなるは白旗稲荷の霊験であり驚くばかりでございます。

思えるに平成十二年、病に伏して後、我が霊力の低下如何ともしがたく、思い悩みておりましたが、本年(平成17年)六月、十世戒心宗賢尼和尚より、地蔵寺縁起書の作成と世代記の活字化を御下命くだされました。その機を縁に我が霊力も嘗ての力が蘇るような気が致して参りました。

〜続く〜
地蔵寺縁起書紹介 其の三
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と深草稲荷(伏見稲荷)のこと
白旗稲荷の縁起を知るにはまず、深草稲荷を知らねばなりません。深草(伏見)稲荷と申せば、日本中知らぬ者無しの稲荷の総本山、どなたも白狐の姿を思い浮かべます。しかし、これは稲荷の霊力を知らしめす為の仮の姿であって、御神体は別に確りと存在致します。御祭神は、五柱神、

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田彦大神  (さたひこのおおかみ)
大宮能売大神 (おおみやのめのおおかみ)
田中大神   (たなかのおおかみ)
四大神    (しのおおかみ)

となり、宇迦之御魂大神は、古事記によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)と市比売命(いちひめのみこと)の二神の子として生まれ、宇迦は倉稲(うが)あるいは食(うけ)とか御饌都(みけつ)とか言われるが、何れも食物であり、ウカノミタマとは稲玉そのものと解釈できる。御神号は「伊奈利」であり、最古の文献と言われる山城国風土記や扶桑略記にこの「伊奈利」の文字を見出す。

その後、稲が成るが稲荷に転化した。白旗稲荷の縁起を語るに、この「山城国風土記」を見過ごす訳には行かない。この風土記に「餅の的」という話がある。古代、豪族の秦(はた)氏の先祖に、伊呂具と言う男があった。この伊呂具、こともあろうに、鏡餅を的に弓の射比べをした。すると、誰ぞの弓が見事に鏡餅を射抜いた。するとどうだ、鏡餅は白い鳥に変化し、ハタハタと飛んで行った。あまりの事に腰を抜かした者もあったが、皆、白い鳥を追った。しら鳥は深草の山頂辺りに舞い降りた。翌年、その山の辺り一面に稲穂がたわわに実り、稲荷になったと云う。

しら鳥がハタハタと舞い飛ぶ故事は、白旗すなわち伏見稲荷の象徴であり、古代豪族秦氏とも深い係りを持つ。その後の伊呂具は、貧窮の日々が続き、失落し亡くなった。更に時が経ち、その末裔の一人が伏見稲荷社に許しを請い、結果、神の許しを得て、その後秦氏は永く繁栄したと云う。

ここまで稿を進めれば、玉圓尼の、白鳥の歌の真意が見えてくる。「しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ」白鳥とは、古事記を見ても、日本武尊(ヤマトタケル)がその最後に白鳥に変化して飛び去ったとあるように、古来より霊鳥は白い鳥と解釈されていた。その飛び交う羽音がハタ、ハタ、ハタと表現されています。

注目すべきは玉圓尼の歌にあるように、それは一字ずつ文字面を替えていると言う事です。最初はハタ、次は旗、これは白旗稲荷を表現し、最後は秦となり、これが稲荷の霊夢、白旗稲荷の御神号となり、今に伝えられた訳です。

〜続く〜

地蔵寺縁起書紹介 其の二
玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の二)

バタバタと 走り来たりし 在の衆 帰り藁は ハタハタと聞く 

玉圓尼と、白旗稲荷大明神の出発の日が来た。しかしそれは、村人や在郷の人々にとっては、別れの日となった。涙を浮かべた者もあった。それぞれの思いが行き交い見送った。しかし奇特もあった。尼庵の御宝前、玉砂利の下より、耀くような白い玉石が出土した。その上、長老の夢枕に白鳥が舞い込んだことも重なって、見送る在郷の衆は、大和の国の国境まで続いたと伝えられる。 
 玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の三)

白旗の 奇特の縁ぞ たのもしや 送る人波 国境まで 

いよいよ峠を越える玉圓尼であった。時は新緑の五月、再び大和を訪れる事はあるまいと、峠から見下ろす大和の国は、目に滲みる程、美しかった。
 玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の四)(其の五)

この時ぞ ばかりは神妙 稲荷なる 大和の峠 今越え行かん

玉圓の 肩に寄り添う 白旗の 揺れるに任せる 神妙稲荷

やがて玉圓尼は、大明神を荷うて、矢田郡半田の港に到着致しました。そこで暫時の草庵を結び、ややあって、五世寿教尼の請いに応えられ、尾張名古屋の地蔵寺に到着なされました。白旗稲荷大明神は、奇なる縁を持って地蔵寺の鎮守神として併祭されました。
なお、白旗稲荷大明神の鳥居前に鎮座する石像、不動明王立像は、「嘉永五年壬子八月 海老屋町 施主 ※1山本□和吉」の刻名を持ち、もと白山神社(榎権現)にあった物が、明治の廃仏毀釈の折、当地に移されると聞く。稲荷と不動尊は、ことのほか相性良く、摩訶不思議なる稲荷の神域の理を知る。
 玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の六)

不動あり 白旗稲荷の 神域に 流転の時ぞ 思いは廻る

〜続く〜

※1…山本□和吉の□の部分は、現地で確認したところ、風化して読めなかったので□としました。

地蔵寺縁起書紹介 其の一
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と六世玉圓尼のこと
 六世玉圓尼が大和の国、尼庵の住職なされし時、「白旗稲荷大明神」の加護を受け、種々の奇特あり。在の衆より格別の信仰を受けられた。

ところが、玉圓尼がこの地を去る縁が生じた。その日が、いよいよ間近になった頃、その噂を聞きつけた在の衆が、近郊からバタバタと集合した。その長老とも言うべき人が、こう言った。「玉圓尼さま、白旗稲荷大明神を此の地の守護神として永く祭りたい。これが、皆の衆の気持ちじゃ。どうか、稲荷明神を此の地に残して下され」と懇情嘆願して来た。

尼は「玉圓あっての大明神ゆえ」と静かに申された。しかし長老は、一歩も引き下がらなかった。長老は「皆の衆、玉圓尼さまにお願いするのじゃ。稲荷明神を此の地に残してもらうよう、お願いするのじゃ」と。村人も、玉圓尼さま。どうかどうかと、必死で懇願して来た。しかし玉圓尼は微動だにせず、こう申された。

「我が玉圓なる法名は、稲荷宝珠の丸き玉圓に由来せしもの。故に玉圓あっての稲荷大明神、これまた大明神ありての玉圓なり」とその迫力に、もはや異論を唱える者はいなかった。更に玉圓尼は、今朝明け方夢見た、霊夢をお話しなされた。

白旗稲荷大明神は、白鳥に変化して、ハタハタと舞い飛びて「玉圓、我も供に」と申されたと。この時の玉圓尼の詠みし、白旗稲荷の歌(其の一)が残されている。

しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ

更に玉圓尼の霊夢に言うに、「この尼庵の御宝前、砂利石の下に白い玉石あり。これぞ白旗稲荷の眷属なり。慎みて勧請せよ」と申された。村人や在の衆は大いに納得したと云う。

〜続く〜

地蔵寺縁起書紹介 序
ここで、地蔵寺縁起書をこのブログで紹介したいと思う。「白旗稲荷外伝記」は未完なので断念するが、先にお寺に収めた簡易版の縁起書についてだ。

「地蔵寺縁起書」
■登場人物紹介
玉圓尼…地蔵寺六世住職、奇縁あって奈良から尾張の地蔵寺に来る。偉大な法力を持った尼僧。地蔵菩薩の生まれ変わりと言われる。

白旗稲荷…玉圓と共に旅に出、地蔵寺の守護神となった深草神将稲荷の御分霊。膨大な知識を持ち、様々な呪法を行使する白狐(びゃっこ)の姿をした神霊。玉圓に憑き共に修行をしている。

瑠須庵…父のペンネーム。由来は当家の茶室「るすあん」から。

※なお、本稿は後々説明致しますが、呪法「御玉転がし(みたまころがし)」を一部用いて執筆されております。

■参考文献
地蔵寺世代記
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会

■御協力
白旗稲荷、※1狐童女 ※2財賀稲荷
※3紅葉稲荷大尊天(最上稲荷御分霊)

※1…狐童女(きつねめ)、白旗稲荷の尻尾の先は金毛になっていて、その一本に白旗稲荷が命を吹き込んで生まれた童女の姿をした狐。
※2…財賀稲荷(ざいがいなり)、狐童女より更に分霊した小さな狐。
※3…縁あって当家でお祭りしている、お稲荷さん。元は岡山県の最上稲荷。とてつもない霊力を持つ。何度も危機を救って下された。

なお紅葉稲荷大尊天、狐童女、財賀稲荷はブログ紹介の縁起書ではなく、「白旗稲荷外伝記」にて活躍されます。

次回より始めます。  もみじ

 


絵について 〜縁起書5〜
〜縁起書4からの続き〜
前回紹介した、白旗稲荷と玉圓尼の絵について、現在の地蔵寺住職からこんな話を聞いた。玉圓という方は、当時、奈良でお祭りしてあった白旗稲荷と共に愛知県名古屋市に向けて旅に出た。その際、旅に必要な荷物を常に片手で持っていた。そんな様子を見た人々はよく訪ねたそうだ。
「何故手で持つには大きな籠なのに、それを背負わないのですか?そのほうが楽なのに」そう言われると玉圓は決まってこう答えていた。
「私の背には白旗がおりますゆえ、荷物を背負う訳にはまいりません」

名古屋から犬山市に向う途中、稲荷を祀る神社を発見した。そこは江戸期に創建された稲荷社で、そこの稲荷は旅の山伏と共にその地を訪れ村の危機を救ったと言う。どうも稲荷という神霊は(全てがそうとは限らないが)選ばれた人間に憑いて人間と共に修行をするというケースがあるようだ。

地蔵寺とこの稲荷社に残る伝説はよく似た話だと思った。

焼失した寺宝  〜縁起書4〜
〜縁起書3からの続き〜
脳裏に鮮明に浮かんだ映像を絵にしたものと、すらすら書いた七首の歌を持って地蔵寺を訪れた。

まず、色鉛筆で彩色した稲荷を背負った玉圓の絵を尼さんに見せた。
それを見たとたん、尼さんは「どこで、これを どうしてこの絵がわかったんですか」と驚いていた。話によると戦前は全くこの絵と同じ構図の掛け軸があったそうだ。現在は焼失してしまっていた。

次に、特別歌の才能がある訳ではない父が、玉圓の事を書くと、歌が次々に浮かんでくるのはどうしてでしょうか?と尋ねた。尼さんは、
「それも、私には心当たりがあります。六世玉圓は、たいそう歌が得意だったようで、これも火災で燃えてしまいましたが、戦前は玉圓が残した歌集が何冊もありました。一生の間に相当な数の歌を詠んだようです。」との事だった。

絵と歌の意味がこうして理解する事が出来た。現在執筆中の「白旗稲荷外伝記」どうやらこれは、戦前には残っていたが焼失してしまった、地蔵寺の縁起書の時を越えた「復刻、真説版」になりそうな感じだ。



20070909105554.jpg


白旗稲荷と玉圓尼  〜縁起書3〜
〜縁起書2からの続き〜
地蔵寺守護神、「白旗稲荷(しらはたいなり)」と六世「玉圓尼(ぎょくえんに)」の箇所が最も筆が走ったと書いたが(と、言うより殆ど白旗稲荷と玉圓さんの話)書き始めると不思議な事があった。

一つは、五,七,五,七,七の歌がいきなり七首浮かんだ。中には今の日本語では使わない古い言葉が入っていたりしていた。考える時間などなくすらすらと浮かんでくるのである

もう一つは映像が鮮明に浮かんだ事だ。それは玉圓さんが背中に白旗稲荷を背負い、左手に竹製の籠を持ち、右手に白旗稲荷と染めたのぼりを杖代わりに握り締めキリリとした表情の映像だった。一点もぼけずに頭に浮かんだので父は、脳裏に写った姿を画用紙に描き色鉛筆で色をさした。

執筆を始めて間もない内にこんな体験をしたので、すぐさま、この七首の歌と手描きの絵を持って、地蔵寺の尼さんに事のいきさつを話し相談しに行くことにした。

〜続く〜
白旗稲荷外伝記      〜縁起書2〜
〜続き〜
ここで少し地蔵寺について触れたい。江戸期に建立された地蔵寺は、代々尼寺なのが特徴で宗派は禅宗だ。その名が示す通り、御本尊は地蔵菩薩で秘仏となっている。この本尊の横に白旗稲荷(しらはたいなり)と云う地蔵寺守護神が祭られている。元々は深草神将稲荷(京都の伏見稲荷)で、御分霊(神道の考え方では神々の魂は幾つかに分かれる事が出来ると云われる)となった稲荷が白旗稲荷である。

初代の尼僧から数えると、現在のお世話になっている尼さんが十世となる。先代、つまり九世の遺した僅かの資料には歴代の住職の名前と没年月日が記してあった。

その中で、六代目に「玉圓(ぎょくえん)」という方がいた。玉圓さんは江戸後期に奈良県から、白旗稲荷と共に愛知県の地蔵寺にやって来た。父が執筆を始め急に筆が走り始めたのは、この玉圓さんと白旗稲荷について書くようになってからだ。とてもこのブログでは全て紹介する事は出来ないが、お寺の縁起書としては、その内容、量共に前代未聞の超大作になりつつある。簡単に言うと玉圓が白旗稲荷を連れ、住み慣れた奈良を離れ、地蔵寺に向う道中に起こった物語だ。
それは既存の昔話とは違うとても面白いもので、しいて近いというと西遊記が挙げられるだろうか。現在継続中の「地蔵寺縁起書」実はその殆どは白旗稲荷と玉圓の話が中心となっている。
父はこの白旗と玉圓の話を「地蔵寺守護神 白旗稲荷外伝記」と名付けた。

長くなってきたので続きは次回へ
地蔵寺縁起書
我が家は1年に1回、近所の地蔵寺というお寺の尼さんにお参りに来てもらっている。3年前に来て頂いた時、尼さん(当時92歳)が父にお願いがあると話しかけてきた。お寺の縁起書を作ってくれないかと言うのだ。何でも地蔵寺は名古屋大空襲の時、寺と共に資料等が燃えて無くなってしまった。尼さんはこんな話をした。
「私も歳なので、何時迎えが来てもおかしくない。私が死ぬと寺の歴史が途絶えてしまう(この時は後継者が決まってなかった)。命があるうちに資料として遺しておきたい。力を貸してくれませんか?」
と言うのだ。父は快くこれを引き受け執筆活動が始まった。筆を取るにあたり、流石に何もないと書けないので、何か参考になるものが残ってないですかと尋ねた。
前述の通り戦争で古い本などは燃えてしまっていたので、今あるものと云えば先代の住職が手書きで遺した原稿用紙2,3枚の資料だけだと言うことだった。
僅かな資料を元に執筆が始まった。まずは先代の遺した原稿を写す事からだ。…直にうつし終わった。普通、写し終わればもう書く事は無くなるだろう。
しかし、不思議な事が父の身に起こった。筆が勝手にズンズン進むのである原稿用紙は膨大な量になり未だ完結していない。
とてつもない量だったので、縁起書の依頼が急をようする事もあり、とりあえず寺の縁起書の触りの部分だけ構成しこれは納めた。

父の書いている様子などを間近で見て、実際にあったことを次回から紹介したい。 〜続く〜
庭から・・・
父が子供の頃に体験した話。中学生の時、金色眩い大きな釈迦が現れ、その当時庭に植えてあった百日紅の根元にスーッと小さくなって入っていく不思議な夢を見たそうだ。
朝起きても鮮明に覚えていたので、「まさかな」と思いつつ夢に出てきた百日紅の根元を少し掘ってみたら、なんと鉄製の10円玉くらいの大きさの、苦行の釈迦(ガリガリに痩せている)の姿をあしらった絵銭が出土した

この絵銭、調べてみたが日本のものではないようだ。形はひし形で図柄も珍しい。また4文字で「自求多福」とある。
「幸せは自らが求めなさい」という意味だろうか。夢で見た通りに庭から釈迦の図柄の絵銭が出てきたのも驚くし、何でうちの庭にそんなものが埋まっていたのか疑問もあるが、そんな事より「自求多福」の四文字が何かとても深い意味があるなと、このブログを書きながら考えています。

※今回改めてこの絵銭を見て文字がある事を初めて知りました。