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Author:もみじhk
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| もみじの記録帳 古き良きものや、日々の気付き、思ったことを気ままに記録しています。 |
| 笑う仏像 |
思い起こせば、子供の時からホントに沢山の仏像と縁があった。最初の興味は造詣としてのカッコよさだった。小さい子供が車種やヒーロー番組のキャラクターを覚える感覚だ。やがて見ている内にあったかいものを感じたり、気分転換できるなと思うようになった。
そんなある日、仏像が笑う事に気付いた。一見、無表情に見える如来や菩薩像の表情が明らかに変わるのだ。初めてこの体験をした時は驚いた。何でだろうと考えたが直に答えが湧いてきた。
仏像は鏡と同じだったのだ。観る側の心の在り方で、「怖いな」と思えば険しい顔に観え、逆に「有り難いな。嬉しいな」と思うと満面の笑みに観えるのだ。
殆ど感性の話だが、これを世迷い事と受け取らず素直に実践してみて欲しい。例えば大きな、そう奈良や鎌倉、岐阜などの大仏などは、最初デカイ姿に「怖さ」を抱くと身がすくんだり、びっくりしたりするが、自分の心で受け止め「感謝と喜び」の気持ちに変わる時、大きなお顔が「ぐわーっ 」と笑うので二度びっくりします 。
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| 立て札 |
神社に行くとよく目にする光景に何が上げられるだろうか?建物、鳥居、手洗い場、御神木等等が思いつくが、その中に「立て札」がある。神社の入り口にある主に木や石で出来たものだ。そこには決まり文句で以下のようになっている。
一、境内に車で乗り入れないこと。 一、境内に犬、猫を入れないこと。 一、境内を汚さないこと。 一、境内で鳥、昆虫などを採らないこと。
などが代表的な文句だ。
愛知県○○郡○○○町に仕事に行った際、ふと目に留まった小さな、威厳のある神社を訪れた時のこと。立て札に初めて目にする文句が書かれてあった。一字一句は思い出せないがこんなような内容だ。
「当神社に参拝目的で訪れる意外の人が立ち寄った場合、当方は何が起ころうと一切責任を持ちません。 氏子一同」
とあった 「参拝目的以外では立ち寄るな」という意味だ あまりにも気になったので、近所のお婆さんに立て札の事を聞いてみた。お婆さんによると、昔、子供が神社の境内で焚き火をして遊んでいたら、片足を大やけどしたそうだ。以来その看板を立てたらしい。お婆さんの話や事故後直に作られた立て札の文句を見て、氏子の人達の心境が何となくだが理解出来た。昔からその神社に対して、「畏敬」の念があり、それが今も残っていると思った。
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| 勝ち組の力 |
神社を調べ始めてから気付いた事がある。御祭神の区分についてだ。まず大まかに分けて二つに分かれる。
ー然そのものが神として祭られている。 ⇔鮖望紊房尊櫃砲い真擁が後に神となった。
となる。△呂気蕕貌鵑弔吠けられる。
◆1 戦争、権力争いで勝った人達 ◆2 反対に負けた人達
となる。全国の神社を調べた訳ではないので、ひょっとするとこれには当てはまらないものがあるかもしれないが、まず間違いないだろう。
◆2については酷い扱いを受けている場合が多い。犬や羊など動物として祭られたり、更に酷いと祀られず妖怪として語られたり、名前すら忘れられ完全に歴史(地元)から姿を消してしまっている。
以前、このブログで大阪の葛井寺を取り上げたが、その帰りに応神天皇の古墳を見に行った。大きさでは日本二位だが、体積では日本一位の巨大な古墳だった。車で行ったが、あそこに山 があるなと思っていたらそれが古墳だったので本当に驚いた。応神天皇は◆1に属する神だろう。 勝ち組の凄さを見た気がした。
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| 完全秘仏 |
6年ほど前だろうか。昔の歌にもあった、京都の三千院に行った。当時の新聞で三千院の完全秘仏が初めて公開されると知ったからだ。普通の秘仏は、一ヶ月置き〜60年位までの間で公開されるので運が良ければ目にすることが出来る。それと違って完全秘仏というのは絶対に公開することはない仏像だ。
三千院の完全秘仏、薬師如来は創建以来、お寺の住職すらも見てはならない仏像だったが、世の中に暗いニュースが増えてきたので、それを危惧したお寺側が、1200年の沈黙を破り初の公開に踏み切ったのだ。
その薬師如来像は、一度も外気に触れていなかった為か当時の彩色がそのまま残り、最近作られたと思えるほど完璧な保存状態だった。
古い仏像にはいろいろな想いが詰まっている。世の平和や幸せを願う人々の想いだ。中には、仏像を掘る際、ノミで一刀入れる度にお経を読んで完成させた仏像もあると言う。完全秘仏というものも、そうした事に何か意味があったのだろう。
奈良時代に止められた「時」が再び動き出す瞬間 に立ち会えた事にとても幸運だと思った。
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| 葛井寺 |
一番感動した神社について以前述べたが、一番感動したお寺(というか仏像)と言えば大阪の葛井寺だ。国宝に指定されている坐像の千手観音で、初めて観たのが小学3年頃だったか…。 普通、仏像の千手観音と言うと手の数は略式(多いのが四、五十本か)になる場合が多い。千本手を作るのはそれだけで大変だからだろう。 葛井寺の千手観音は乾漆の坐像で、きちんと千本の手が作られている まるでハリネズミのようにも見える。 奈良時代特有の力強さと美しさを兼ね備えた仏像だ。
昨年、大阪に用事があってこのお寺に再訪する機会があった。遠方の寺でもあるので、まさかもう一度来るとは思わなかった。寺に着いて随分久しぶりの再会だなと思いつつ、その御姿を観た。子供の頃に脳裏に焼きついた映像そのままだったので自分の記憶力に少し感心しつつ、当時の驚きや感動を思い出すことが出来た。
「宗教」と聞くと、うさんくさいイメージを抱く人がいる。その気持ちは分からなくもない。実際に営利目的に走り、本末転倒になっている所も見られるからだ。最近、この「宗教」と何かを信じ敬う「信仰」というものの違いが分かってきた。 1200年以上の昔から様々な困難を乗り越え、数限りない人々が願い、今日に至るまで守られてきた葛井寺の千手観音のような古い仏像の前に立つと、純粋な信仰心と言うのだろうか、懐かしい、暖かいものを感じる。「明日からも頑張ろう」という気持ちになる。仏像の魅力はそこにあると思う。
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| もみじ寺 |
〜続き〜 桃太郎神社から直の山頂に県下最古の寺、寂光院(通称、継鹿尾観音:これも何か意味があると思う)がある。秋は紅葉で賑わうようで「もみじ寺 」とも呼ばれているようだ。ここの御本尊は秘仏の千手観音だ。御前立(おまえだて:秘仏の仏像は、厨子の前に本尊を写した仏像が置いてあるが、これの事を言う)から察するに、京都の清水寺様式の千手観音だろう。
今迄観た仏像とは明らかに違うのが、寂光院の千手観音の由来だ。この千手観音、ヤマトタケルの御神魂の作とあった。つまり、千手観音の姿をしているが、ヤマトタケルとして祭っていたことになる。こんなケースは初めてだ
犬山の古代史を調べるにあたり、重要なヒントがこの「ヤマトタケル」だ。もの凄く長い話になりそうなので、犬山の話は一旦これで終わる。 また何時か再開します。

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| 桃太郎神社 |
先日、Sさんにお願いして愛知県犬山市にある桃太郎神社に連れて行ってもらった。子供の頃、家族で行ったらしいが記憶が無かったので、いつか再訪しようと思っていた。桃太郎神社に行った事がある人は、過剰な桃太郎のオブジェや、少しうさんくさい伝説(おばあさんが洗濯した岩や鬼の金棒など)などに突っ込み を入れたくなるだろう。 境内のあちこちにあるオブジェは、どことなく無表情なので、それが違和感を醸し出している。サーカスの道化師が不気味な感じを受けるのも顔は笑っていても本人の表情までは分からないから、これと同様だと思う。
ついつい変なオブジェに目がいきそうな桃太郎神社だが、神社自体は昭和になってから観光地の一つとして建立された比較的新しいものだった。しかし、それよりも遥か昔から桃太郎伝説があったようだ。このブログの初期の頃、一度だけ取り上げた桃太郎伝説(全国にある)だが、「桃太郎」を語る時、キーワードを幾つか上げると、砂鉄、蹈韛衆(たたらしゅう:製鉄集団)、差別、鬼とされた人達、などがある。
犬山の古代史は一度詳しく調べた方がよいが、桃太郎神社に行った感想から述べると、「本当の歴史を調べるには一筋縄ではいかないな」だった。概して負けた方の歴史は原型すら留めていない場合がある。 でも何とか結論を出したいなと思った。
桃太郎神社の帰り、Sさんを家まで送り、自分も帰ろうと車を暫く走らせた。しかし、桃太郎神社のすぐ近くにあった「寂光院」という寺が何故か気になり、また戻ってそこに行ってみた。そこには、犬山の古代史に関係があると思える、重要なヒントがあった。 〜続く〜
Sさん、ご多用の中ありがとうございました。

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| ソラの巨木 |
ソラのスサノオノ命の神社を紹介したが、そこへ向う際、目印となる小さな薬師堂(薬師如来を祭ってある)がある。そこには一際目立つ楠がある。木というより殆ど巨人というような、生命力の塊を形にしたような巨木だ。樹齢で言えば千年近いものだろうか。近くで見ると思わず手を合わせたくなるような凄い木だ。
熱田神宮の境内にも弘法大師(空海)が植えたとされる巨大な楠が二本あるが、個人的にはソラの楠のが迫力があると思う。
しかし、この「ソラ」という地名、何でこんな名前なのか疑問に思ったので町(といっても数世帯しかないような所)の人に聞いたら、「空が近いから」と言う答えが返ってきた。山の間から澄み渡る空を見上げるとその通りだった。何の根拠もないけど、この一帯は神様と人間が共存しているなと思わせるような、何とも言えない気持ちの良い場所だった。大昔は日本の至る所にこんな場所があったのだろう。
ここを訪れた後にふと思った事がある。自然の無くなった街中でも何処に行っても、その町々には氏神様がいる。それまで意識する事は無かったが、自分は氏神様の土地に住まわせてもらっているんだと気付いた。遠くに行かなくても近場には、まだまだ良い所があります 。

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| ソラでの出会い |
今迄、神社やお寺はホントによく出かけたが、一番感動した神社はと聞かれれば愛知県岡崎市の外れ、「ソラ」という町名の山奥で出会った神社と答える。
ネットで岡崎市の昔話を調べる内、偶然ここの事を知った。写真を見ただけで、是非行ってみたいと思った。住所を調べてもはっきり分からず、少ない情報を頼りに出かけた。道なき道を、車も通れない山道を近所の人に聞いて進んで行った。
辿りついたその場所は今迄見た事のない神秘的な神社だった。御祭神は熱田神宮の話でも取り上げた、スサノオノ命で、社の前には樹齢400年の二本の檜が鳥居の代わりと言わんばかりにそそり立っていた。この二本の根が神社の土台をグルグルと囲み、スサノオノ命を守っているように見えた。下の写真を見てもらうと判るが、この二本の木、社の方に枝が伸びていない 現場でよく確認したが、枝を切ったような痕跡は一切なかった スサノオはとても激しく強い神である。木が遠慮したのか、スサノオノ命が社の方に枝が伸びるとウザイので生えないようにしたのか…。そのどちらとしか思えなかった。
誰もいない山奥の自然に囲まれた小さな社。昔、「となりのトトロ」というアニメを観たが、こういう所ならトトロがいても可笑しくないなと思った。

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| 消えた古墳 |
名古屋市北区は、その昔「古墳100墳」と言われるほど沢山の古墳があった。それだけ力を持った豪族がいたのだ。しかし現在は数えるほどしか古墳は残っていない。近代化に伴って建物や道路の為に無くなっていったんだろうなと思っていた。
しかしこれは間違いだった。同区の「味鋺(あじま)神社」に行った時の事。味鋺神社は聖徳太子と戦った、物部一族縁の神社だ。敷地内にはお寺があり、昔さながらの形態を残している。 (明治以降、寺と神社は分けられた) その境内に池のある庭があり、池の上を石橋が掛かっていた。石橋の名は「清正橋」と言う。
この由来を見て古墳が減った理由が分かった。名古屋城築城の際、大量の石が必要になった。石を集めるよう指示された加藤清正は考えた。それは城から比較的近くにあった北区の古墳群の石室を利用しようというものだった。嘗て「古墳100墳」と言われるほど沢山あった古墳もこうして、その殆どが解体される事になってしまった。 味鋺神社にあった「清正橋」は古墳から掘り出した石室の一部が余ってしまった為、処分に困ってお寺に奉納したものだったのだ。直に捨てれず、後で何かあってもいけないので、供養の為にお寺に奉納したのだろう。
時の権力者は無茶苦茶 やるもんです。
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| 信長の本音 |
桶狭間の話が出たので、織田信長に関係する話を一つ。 我が家の前の道は、古くは清洲街道と呼ばれていた。その昔、清洲城から出兵した織田信長が桶狭間まで馬を走らせた道だ。うちの町内の氏神様は白山神社で、そこの由来の一つに織田信長が桶狭間に向う際、戦勝祈願の参拝をしたとの伝説が残っている。 似たような伝説は熱田神宮や、少し手前の日置神社にもある。今川義元を討ち取った後、熱田神宮には土塀(信長塀)を奉納したり、日置神社には境内に沢山の松を植えたそうだ。これは後に千本松原の地名にもなった。まだ調べてはいないが、清洲城〜桶狭間に至る古い神社には、ひょっとすると「全ての神社で戦勝祈願をしていたのでは?」という可能性も出てきた。
信長は史実から考えても、かなり気性の激しい人だったようだ。比叡山を焼き討ちしたり、同盟国でもある徳川家康に、自分の子を殺せと言ったりしていた。
そんな信長も、大兵力で進軍する今川勢に遥かに少ない手勢で奇襲攻撃をかけるには、かなりの不安 があったのだろう。数箇所に残る信長戦勝祈願の足跡を見て、当時の信長の心情を少しだけ理解する事が出来た。
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| 新説?桶狭間 〜刈谷市の昔話2〜 |
以前このブログで取り上げた「めったいくやしい」を調べていたら、こんな昔話と出くわした。それは戦国合戦史上、最も有名な奇襲攻撃と言えるだろう、今川義元と織田信長が戦った「桶狭間の合戦 」に関係のあるものだ。
【お富士の松】 その昔、天下を狙う今川義元は大軍勢を率いて、京に向っていた。今川勢が現在の名鉄本線「富士松駅」あたりに来た時、一人の旅人が今川方の侍に捕まり、「お前は、織田の間者(スパイ)だな」と容疑をかけられた。旅人は違うと言い、ただひたすら「権現さま、権現さま」と手を合わせていた。尚も食い下がる侍達は旅人を殴ったり蹴ったりし、ついに切り殺してしまった。その後、今川勢が桶狭間に向った途端、暗雲が立ち込め雷が鳴り響き大雨となった。そして今川義元は織田信長に打ち滅ぼされてしまった。その後、旅人を哀れに思った村人達は塚(墓)をつくり松を植えて葬った。この松はお富士の松と言われ昭和まであったが、伊勢湾台風の時倒れてしまった。お富士の松は倒れる際、ゴーゴー吹く風の音に紛れて悲鳴のような音を出しながら倒れたと言う。
この昔話を知った時、当時の村人達が「怖れ」を抱いていたんだなと思った。少なからず、今川義元が負けたのは、この旅人を殺した事により、その恨みが祟りとなり、それが原因となったのではと村人達は解釈したのではないのだろうか。見ず知らずの旅人を手厚く葬ったというのも、ちゃんと祀らねば何かあったら困ると思ったのだろう。 塚に木を植えるという習慣は、どうも刈谷市に限った事ではなく他でも似たような事があったようだ。推測だが、木を植える事により「あそこは近寄らない方がいい」という「目印」という意味があったのかもしれない。
何にせよ、歴史研究家がこの説を聞いたら笑うことだろう。ただ、言える事は昔の人達は普通の感覚として「祟り」という怖れ があったという事だ。
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| 黙祷 |
父は古いものが好きだ。特に寺、神社、古美術品、歴史などの知識は凄いものがある。ここ数年、父は長年の夢であった執筆活動を始めた。内容は神社についてだ。子供の頃から耳にタコが出来そうなくらい神社の事や昔話を聞かされた。家族の中で一番聞かされたのが私だ。
当時は正直うんざりしていた。父が病を患い、目の視力が悪くなってからは車の運転が出来なくなったので、研究対象の寺や神社に行く時は私が仕方なくついて行く事になったが、同行しているうち、父のしようとしている事を素直に応援したくなった。
神社は調べ始めると、とんでもなく奥が深い。好奇心をくすぐられる事も多い。父が言うには現在執筆中の本の最後は靖国を取り上げなければならないそうだ。
神社の歴史は人の歴史だ。そこには太古より、数えられないほど大勢の犠牲の上に今の自分が生かされているんだと言う事がよく分かる。
今日は終戦記念日。故郷の為、家族の為に戦い亡くなった人達や、生きたくても生きれなかった人達の尊い犠牲の上に今の自分がいる。
どうか安らかに。
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| 滅びから希望へ |
以外に長かった「もみじの記録帳 デビルマン編」もこれで最後。 デビルマンは海外でも有名な作品らしく、ハリウッドから映画化のオファーが何度かあったそうだ。しかし原作者の永井豪は許可を出さなかった。持ち込まれたどのシナリオもデーモン=悪として取り上げてあったからだ。だが2004年、日本人の手によってデビルマンは実写化された。この映画は映画館まで観に行ったが、ほぼ原作通りの内容だった。 (原作のが遥かに凄いけど)
ただ一点、ラストシーンが違っていた。原作では了(サタン)しか生き残らなかったが、映画版では明と同級生の女子高生(名前忘れた)と彼女を慕う男の子が生き残り、何もかも破壊された世界で生きる決意をするというものだった
原作が連載されたのは昭和47年なので、当時の日本は好景気でまだ明るい時代だった(らしい)。しかし現在の日本は前年度と本年度の人口を比べると減少(自殺がそれだけ多い)していたり、親が子を殺し子が親を殺すというような凄惨なニュースが後を絶たない。
作中でも親が子供を殺害する話が出てくるが、だんだんと原作のような世の中に近付いてきている感も受ける。
推測だが、そういう状況を危惧した永井豪や映画監督は破滅的なラストよりそれでも生き抜くという「希望」をラストシーンに選んだんじゃないかなと思う。
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| 炎の化石 |
〜続き〜 キリスト教成立と時を同じくして「グノーシス主義」という宗教思想運動が盛んになった。しかしその内容から「異端」との扱いを受け、徹底的な弾圧を受けついに西欧史から姿を消してしまった。
グノーシス主義については勉強不足なので、違っているかもしれないが、簡単に説明すると、キリスト教ではこの世界が全知全能の神によって創造された完全な宇宙と説くが、グノーシス主義は、この世界は愚かで無知な神によって創造された不完全な宇宙と説く。
同じように、聖書においては神が最初に創った人類「アダムとイブ 」は神が食べてはいけないと言った「知恵のリンゴ 」を蛇にそそのかされて食べた事により、神の国(エデン)を追われた。ゆえにキリスト教では蛇が邪悪の象徴となっている。 しかし、グノーシス主義では、知恵のリンゴを人間に与えた蛇こそ偉大であり、人間を無知な状態にしようとした創造主こそ抑圧者だと説く。
巻末の解説文を読んだ時、なるほどなと思った。永井豪が書かされたという作品、デビルマンは「グノーシス主義」を散りばめた、作者の意図を離れた「異端の書」として完成に至ったのではないのだろうか。
話は変わるが、デビルマンを読んで何かしら心に響くものを感じた人には、読み終わった後に氷室京介の「炎の化石]を聴いてもらいたい。 意味深な歌に聴こえるはずです。
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| 〜すべてを捨てて闘う男♪ |
〜続き〜 デビルマンは「神と悪魔」と翻弄される人間の物語だ。物語を奥深いものにしている理由の一つに「何が正義で何が悪なのか」というテーマが挙げられると思う。 具体的には、
1 残虐な悪魔(デーモン)が同族の仲間に対して涙 を見せる。
2 デーモンは神が創造した先住人類(という設定)だったが、失敗作と決めた神がデーモンを滅ぼす事にした。(神にもミスがある)
3 神の身勝手な決断に反対した天使(サタン)がデーモンと共に神と戦い勝つ。(この時点で神=正義ではないという解釈)
4 サタンは神との再戦に備えデーモンと共に永い眠りにつく。しかし目覚めた時には自然を破壊し地球を汚し続ける自分の知らない人類がいた。サタンは怒り、人類を滅ぼすと決める。結果これは成し遂げられたが、嘗て神がデーモンを滅ぼそうとした事と同じ事を自分がしていたと気付く (サタンもまた不完全な存在)
5 主人公の不動明が愛した女性、美樹の命を奪ったのはデーモンではなく暴徒と化した人間だった(明は人間の命を奪う人間こそが悪魔だと叫ぶ)
今回のブログを書くに当たって、私が中学生の頃に購入した全5巻の「デビルマン」を数年ぶりに読み返してみた。2巻目の後書きにこんな解説があった。長くなりそうなので次回へ…。
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| 〜今日もどこかでデビルマン♪ |
世間では今は夏休みだ。小学生の頃、夏休みや冬休みなどの長期の休みにはテレビで再放送のアニメをよく放映していた。その中でデビルマンが結構好きだった。中学に上がった頃、近所の本屋に立ち寄ったら、漫画版のデビルマンがある事を知った。テレビのイメージがあったので、「原作はどんなんだろ?」と軽い気持ちで手にとり読み出したら、そのあまりの違いに衝撃を受けた。
「デビルマン、顔コワ!」「尻尾あるぞ、羽は蝙蝠だ!下半身毛むくじゃらだ!」ヒーローとは言い難い、むしろ悪そうな姿 に驚いた。しかし読み進むにつれ、真に驚くはその内容であると分かった。
主人公はじめ、ヒロイン、全ての登場人物が一人を省いて全滅 すると言う、子供が読んでいいのか?というものだったのだ。
原作のデビルマンは「神と悪魔」についての物語だ。もしこの作品が中世のキリスト教圏で配布されたら「禁書」として作者の永井豪は死刑になっていただろう。今尚読み返しても、特に後半部分は異様な迫力がある。永井豪も後に「デビルマンは殆ど(得体の知れない力のようなものに)書かされた作品だ。自分も書いたかどうか、おぼろげな箇所がいくつかある」と言っている。日本漫画史上、名作の一つに数えられるだろう「デビルマン」について真面目に考えたい。デービール!
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| 清涼寺式 釈迦如来 |
京都の清涼寺には、国宝に指定されている立像の釈迦如来像がある。 元は中国の宗の時代に作られた釈迦如来像を日本の留学僧がコピーを作り日本に持ち込んだものだ。何でもこの像、釈迦の姿を精巧に写した像で身長や服装も釈迦と同じと言われている。日本の仏像とはまた違った様式だ(インドっぽい感じ )また、外見だけではなく内臓まで作られている。無論、当時の知識では詳細な臓器の形や数が分からなかったようで、理科室においてある人体模型のようにはいかないが、布でそれらしくしてある。
この釈迦像のことを、寺の名に因み「清涼寺式 釈迦如来」と呼ばれ、またさらにコピーが数体作られ、日本各地に伝わっている。
前回取り上げた、名古屋市中区の切支丹寺、栄国寺や、三井寺にも鎌倉時代の清涼寺式釈迦如来がある。いかに釈迦の人気が高かったのかうかがい知れるだろう。
名古屋は空襲にあったので、多くの寺や文化財が燃えてしまった 今の世は仏像などの盗難も多いと言う。
後世の人の為にも文化財はしっかり守って伝えてほしいと思う。
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| 切支丹塚 |
名古屋市中区にある栄国寺には近年、名古屋市の指定文化財になった鎌倉時代の大きな阿弥陀如来がある。寄木造の良作で力強い仏像だ。その前に座ると動きたくないほど吸い寄せられるような魅力がある。
そんな栄国寺の創建理由は供養の為に建てられた寺だった。嘗てこの地は千本松原と呼ばれ、徳川幕府が禁教令を出し、弾圧された隠れ切支丹の処刑場だったのだ。相当な人数が処刑されたようで、徳川幕府も切支丹の祟りを恐れたのだろう。塚を作り祀ったのだ。
そんな背景のある栄国寺には、切支丹に因んだ資料が展示してある。 切支丹を取り締まる、当時の木の看板や十字架などがあり、その中に祖父が寄贈した江戸期の弁財天像もある。弁財天とは仏教に出て来る、天部の神だ。七福神の中の唯一の女性でもある。弁財天は芸能の神として慕われているように、手には琵琶を持っているが、祖父が寄贈した弁財天は琵琶ともう一つ細長い丸いものをその手に抱いていた。その丸いものを良くみると布に包まった赤子だった。
そう、この像は一見すると弁財天だが、もう一つ別の顔があった。それは赤子=イエスを抱く、マリア像だったのだ 切支丹の弾圧は相当厳しいものがあった。キリスト教と分かるものを持っていてはいけない。隠す必要があった。この弁財天もそんな心情で作られたものだったのだろう。祖父が何故この像を持っていて、何故寄付したのかは今となっては分からない。もういないからだ。父の話だと祖父は洗礼名を持っていたらしい。そのあたりに秘密がありそうな感じがした。
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| 笠寺縁起 |
笠寺観音の話を取り上げたので、縁起について少しふれたい。平安時代の話、とある長者の家に仕えていた美しい娘がいた。その美貌に嫉妬した長者の妻は、日毎娘をいじめ続けた。朝夕草刈、潮汲みをさせ、雨が降る日も笠を与えず働かせた。哀れに思った人が娘に笠を与えた。 しかし、信心深かった娘は、当時自らが信仰していた荒廃した小松寺の、雨ざらしになっていた観世音菩薩の頭にその笠を被せた。
それから暫くして関白藤原基径の子、兼平中将が東国下向の際、長者の家に泊まった。その時、兼平はこの娘の優しさに惹かれ、自分の妻として迎えた。この娘は玉照姫と呼ばれた。
延長8年(930)兼平夫妻は縁を取り持ってくれた観世音菩薩を祀る小松寺を復興し笠を被った観世音菩薩に因んで「笠覆寺」と名付けたという。
日本版のシンデレラストーリーだ でもシンデレラと少し違う所はいじめにあっても、他者(この場合は雨ざらしになっていた観世音菩薩)を哀れに思い自らを省みず、笠を与えたというところだろう。 そういう「思いやり」の気持ちが後に繋がったんじゃないかと思う。
こんな歴史背景があるためなのか、今なお笠寺観音には縁結びを求めて参拝にくる男女が多いそうだ。
そういえば、あの子猫も良き縁を貰ったんだな、きっと
注:笠寺観音参拝の際は境内に兼平夫妻を祀っているお堂があるので、そちらも行くといいです。
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| 笠寺の猫 |
名古屋市のお寺で最も好きな寺を挙げるとすると、南区にある笠寺観音が真先に出てくる。名古屋を代表する歴史ある真言系のお寺だ。 今年の5月、9年に1度の秘仏の観世音菩薩が御開帳になった。仏像自体は170cm位の大きさで、笠を頭に被っているのが特徴だ。奈良〜平安初期の素晴らしいものだった。笠寺縁起によると、どうやら霊木で彫ったようだ。
寺を訪れた時、手洗い場でまだ生まれて間もない子猫 を見た。親とはぐれたのか、ガリガリに痩せていて手洗い場から垂れる水をチロチロと舐めていた。家には既に猫を飼っているので、どうしようかと思った。参拝が終わり、もしまだ居るなら引き取ろうかなと考え、猫を探したが見当たらない。近くのベンチに座っていたおじさんに聞いたら、「今しがた、どこかの親子が拾っていったよ。家で飼うってさ」とのことだった。
あったかい人に縁があって良かったなとしみじみ思った。
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| フィッシャーキング |
キリスト教には聖遺物の話がある。代表的なのは聖櫃(アーク)聖杯、ロンギヌスの槍だろう。アークや聖杯は、映画のインディージョーンズシリーズや、アーサー王伝説(これがまた面白い)などでもお馴染みだ。 ロンギヌスの槍は、キリストが磔になり絶命した後、死んだかどうかを確かめる為にロンギヌスという人が槍をさした。流れ落ちた血の雫が彼の目に当たる。ロンギヌスは緑内障を患っていたが、何と完治してしまった 奇跡を目の当たりにした彼は改心し後にキリスト教における賢者の一人に数えられたと言う。
これらの遺物は所在がはっきりしない。研究している学者もいるのだろうが、聖杯について一つの結論を出した映画がある。私も大好きな映画の一つ「フィッシャーキング」だ。
詳しくは観て貰うとして、映画の中では聖杯という「物」に価値があるのではなく、人の為に何とかしようという純粋な「想い」が尊いし奇跡を起こす。それが本当の聖杯だという解釈だった(と私は感じた)
良い映画 なので、未見という方にお勧めします。
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| 人を呪わば… 〜湖国の話4〜 |
〜湖国の話2,3〜で登場した三井寺の話。三井寺は滋賀県を代表する歴史ある大きなお寺だ。当時、比叡山と敵対関係だった事を裏付けるエピソードがある。三井寺に行った時に見つけた、境内に祭られている「ねずみの宮」についての伝説だ。三井寺のHPによれば、
白川院の時、当寺の頼豪阿闍梨という高僧に皇子降誕を祈誓するよう勅命が下りました。まもなく祈祷の験あって皇子が誕生し、その賞として当寺念願の戒壇道場建立の勅許を得ました。
ところが、比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと「太平記」は伝えています。
とある。比叡山側の強訴により、念願の道場建立が阻止されたとは云え、その怒り(恨みに近いかも)を祈祷(呪術)で仕返しするという僧侶に有るまじき行為だ。この僧侶、祈祷後すぐ亡くなった。
疑問はまだ残る。「ねずみの宮」は比叡山で暴れた多数の鼠の供養の為に建てられたというが、鼠 を神として祭るだろうか?私見だが、どうも祈祷で命を果てた頼豪阿闍梨を祭っている気がする。恨んで亡くなった頼豪阿闍梨の祟りを恐れ、神として祭ったのではないだろうか。そう考えると「ねずみの宮」が比叡山を向いて建っているのも納得出来る。恨みがそちらへ行くようにしたのでは…?
「人を呪わば穴二つ」を思い出させる話だ。
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| 浄瑠璃寺と蛇 |
仏教で最も美しいとされる天女に吉祥天がいる。鬼子母神の娘とされ、四天王の一人(単位は人でいいんだろうか…)毘沙門天が旦那さんだ。 吉祥天の信仰は関西方面が多いようだ。愛知県ではあまり聞かない。
吉祥天は四天王と同じく「悟り」を開いていない。無論、我々人間よりは遥か彼方にいらっしゃる訳だが、まだ「物」に執着がある方だ。 仏像を観るとよく分かる。釈迦や阿弥陀といった「如来」は悟りを開いているので「物」には一切執着がない。だから身に付けているのは布裂だけだ。吉祥天はと言うと頭から爪先まで、もうこれ以上は付けれないでしょうという程、金銀宝石を身に纏っている。着物も絢爛豪華だ。
今で言うなら、全身ブランド品で固めたおねえさんだ(近寄り難いぞ )吉祥天は現世利益が強い天女とされる。その理由に手に持っている「如意宝珠」が挙げられる。どんな願いも叶えると言われるゆえ、全ての願いを聞く事が人間の為にはならないのでは?と言う事で、吉祥天を本尊として(単体で)祭ってはならないそうだ。
吉祥天像で最も有名なのは京都の浄瑠璃寺だ。山の中にあるお寺で近くには岩船寺があり、その寺と寺を結ぶ山道には石仏が沢山ある。 20年以上前に家族で行った時、岩船寺に向う山道で子供の私が「この道は失敗だ」と言った。家族が見ると私の前に大きな蛇がいたそうだ。(親の話。記憶にはない)
今年に入り家族で浄瑠璃寺に再訪した。その時も私の前に蛇が現れた。 それを観た両親から上記の話を聞いたのだ。 これも何かの縁なのかな
浄瑠璃寺はこちら
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| 堅田(かただ)親子 〜湖国の話3〜 |
光徳寺(骸骨のあるお寺)に伝わる歴史によればこんな話だ。
蓮如上人がいた時代の話。蓮如は比叡山延暦寺の僧兵から親鸞聖人の御真影(親鸞聖人の姿の木彫像)を守る為、当時延暦寺と敵対関係にあった三井寺に御真影を一時的に預けた。落ち着いたら受け取りに戻ると約束し三井寺を後にした。
その後文明十二年(1480年)山科本願寺が建立されて、門徒衆が御真影を受け取りに三井寺を訪れた。しかし三井寺側は御真影を返さなかった。(親鸞の人気は高く、御真影が三井寺にある事で参拝客が増えたから返したくなかったのであろう)門徒宗は約束が違うと食い下がったが、三井寺側はこれを退け、「返して欲しくば、人間の生首二つ持ってこい」と無理難題を言ってきた。困り果てた門徒宗は蓮如に伝えた。蓮如は困惑し日夜心を痛めた。
そんな蓮如の気持ちを察した二人の親子がいた。光徳寺の門徒衆でもある二人、堅田の源右衛門・源兵衛という親子だ。二人は相談し日頃の恩に報いる為、自分達の命を差し出すと決心した。当初、自分の首を先に切ろうと言う父を息子の源兵衛が止めた。親の命を子供が奪う訳にはいかないと言うのだ。話し合いの末、子供の決意が固いと知った父は泣く泣く子供の首を切った。着物の片袖を引きちぎり、それを風呂敷代わりにして包むとそれを持って三井寺を訪れた。驚いたのは三井寺だ。まさか本当に首を用意してくると思わなかったのだろう。父は「持ってきた首は一つだが、もう一つはここにあります。切って下さい」と自らの首をトントンと叩いた。殉教心に感じ入った三井寺の僧侶は、御真影と首を返した。
この事実を後で知った蓮如は嘆き、自らを責めた。そして源兵衛の亡骸を盛大に弔ったと言う。息子の命を奪った父親は諸国巡礼の旅の末、備後国(広島県)で没したと伝えられてる。門徒や信仰の為、同意の上とはいえ息子の命を奪った自分を許せなかったのだろう。僧侶となって旅に出たのだ。
人によっては様々な解釈で受け取られる話だ。否定する人のが多い話だろう。しかし、今観る事の出来る綺麗な白い頭蓋骨からは不気味な感じは受けず、むしろ心から手を合わせたくなる尊いものだった。人の生き様を観た気がした
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| 頭蓋骨を祭る寺 〜湖国の話2〜 |
ふと気付けば、世間では参院選の話題や大臣の更迭問題をよく耳にするが、ここのブログだけは一切取り上げてない。今起こっている事は全然取り上げず、我道を突き進んでいる。昔の話題ばっかりだ。まぁいいか。ネタが無くなればその時考えよう。
琵琶湖の観光地と言うと何を連想するだろうか?多くの方は、琵琶湖の水面に建てられた浮御堂をイメージすると思う。私もその一人だった。何年か前、家族で浮御堂を訪れた時の話。浮御堂をお参りをしてから境内を出て、近くの駐車場へ向う途中に、目に留まった看板があった。看板には「堅田源兵衛御首安置」的な言葉が書いてある。「首?いくらなんでも人間の首がお祭りしてるなんて事はないよな」と話しつつ、行ってみる事にした。
参拝する前にお寺の奥さんに声をかけたら、「どうぞどうぞ」と通してくれた。看板の事を聞いてみるとこの寺で間違いないと言う。 本堂には阿弥陀如来がご本尊としてあり、向って右横に小さな厨子があった。奥さんが厨子を静に開けた。
家族三人目を見開くように驚いた。厨子の中には紛れも無く人間の頭蓋骨が座布団の上に鎮座していたのだ この頭蓋骨の由来を聞いた。それは尊くも辛く悲しい親子の話だった。 次回に続く
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| めったいくやしい 〜刈谷市の昔話〜 |
愛知県刈谷市の洞隣寺に行った時の話。休みの日にドライブしていて、たまたまふらっと訪ねた寺だ。そこで不思議な看板が目に留まった。 看板には「めったいくやしいの墓」とある。「何だこれ?」と思い看板が示す矢印通りに進んだ。こんな史実があった。
昔、今岡(町名)の洞隣寺によく働く娘がいた。後にこの娘は高津波村の医王寺に移る事になった。医王寺の僧侶は大層美男子で、いつのまにか娘は恋に落ちた。好きで好きでたまらなかったが、僧侶は妻を娶る事はしなかった。容姿にコンプレックスを持っていた娘は「和尚さんが好きにになってくれないのは、私が綺麗じゃないからだ」と思い、本堂に忍び込んでは、灯りの油を盗み、髪に付けていた。ある日その現場を和尚さんに見つかってしまい、酷く怒られ追い出されてしまった。娘は自分の恋が叶わぬと悟り、その後「明諦」という尼になったがまもなく亡くなった。哀れに思った、娘が以前いた洞隣寺の住職は境内に墓を作った。しかし、娘の未練は強く、墓から火の玉 が出たり(油が燃えるようなゆらゆらした炎だったと言う)、「めったいくやしい(とても悔しい)」「めいていくやしい(明諦悔しい)」と聞こえたそうだ
こんな現象は明治の初め頃まであったそうだが、今は成仏したのか静になったという。
世の中辛い事はある。けど頑張って前向きで乗り越えないといけないなという教訓だと感じた。未練残すのは怖いです
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| 鐘叩き 〜湖国の話〜 |
お盆も近くなってきたので、こんな話を一つ。 京都と滋賀県の堺の山に比叡山延暦寺がある。平安時代、後に伝教大師と呼ばれた最澄が建立した天台真言系のお寺だ。二回行ったが、全山神域という雰囲気で、「一木一草皆仏」という教えがその通りだなと思わせるようなお寺だ。そんな比叡山に妖怪伝説がある。一つ目、一本足の坊主の姿の妖怪「鐘叩き」だ。その名の通り、手に小さな鐘を持った妖怪で、修行をさぼったりする坊主を戒めていたそうだ。比叡山には今尚訪れてはいけない禁域があると言う。「鐘叩き」が現れるとされる場所もそうだ。
修行僧を戒める類の話のようだが、私が子供の頃、問屋さんの担当者からこんな話を聞いた。(我が家は着物屋です)昭和の50年代頃の話。比叡山の中にある宿泊施設で、京都の着物屋さん数人が宴会をした。その席で比叡山に纏わる、行ったら最後保障はないという禁域の話になった。酒の勢いもあり、一人の男が「そんなのデマかせだ。俺が行って確かめてやる!」と言って夜の比叡山の禁域に入っていった。他の仲間は制止したが言う事を聞かなかった。酒も回っていたので、宿に残った連中は眠る事にした。あくる日の朝、禁域に向った仲間がいない事に気付き、慌てて探したが、どうも一足先に帰宅した事が宿の人に聞いて分かった。
数日後、禁域に入った男が原因不明で亡くなった。家族の話だと、真っ青な顔 で慌てて帰宅し、何を聞いても答えようとしなかったらしい。今となっては何が何やらの話だが、ひょっとすると「禁域」で「何か」に出会ったのかもしれない
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