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2018-10-01

◆真禅院 後編

神と仏が習合した際、本地垂迹説という考え方が出来た。本地とは神の本体、垂迹とは現れるというような意だ。つまり神道の〇〇神は仏教の△△仏が変化して現れたという考え方のこと。

真禅院6

真禅院の重要文化財になっている建物の一つが、こちらの本地堂。江戸時代からある本地堂という名の建物は全国に二つあるだけで、もう一つは日光にある。大変貴重な建物だ。この時は大規模な修理ということで囲いに覆われていた。見た感じ修理は終盤のようだった。このブログを発信した頃にはもう完成していると思う。


本地堂の本尊は阿弥陀如来、つまり、明治以前の南宮大社の御祭神は、阿弥陀如来(本地)が救済のために金山彦大神の姿になって現れたと言うことになる。


正面に立って顔を上げたら鬼と目が合った。

真禅院9

鬼=怖いという印象があるが、仏教においては鬼は御法善神という仏を護る神様になっていることがある。この鬼面も御法善神であろう。

この本地堂の修理に伴い、堂内の仏像(秘仏を省く)が垂井ピアセンター歴史民俗資料館にて公開された。

真禅院図録4

本尊、阿弥陀如来(御前立)の背後に四天王、そして脇侍に夜叉像を配置してある。

通常、阿弥陀如来を三尊形式で祀る場合、阿弥陀如来の隣は観世音菩薩と勢至菩薩と決まっているが、夜叉像が両脇侍になっているのは初めて見た。

資料館で購入した図録によれば、夜叉を従えた阿弥陀如来像と言うのは全国でもこの真禅院だけらしい。仏像をじっと見ていたら妙なものを見つけた。

真禅院図録5

上の画像は向かって左側の夜叉像の台座部分。赤丸の個所に何かの神様?が座っている。服装からすると菩薩や如来ではなさそう。破損もある為特定できない。

真禅院図録6

あれ?と思い、右側の夜叉像の台座を見ると、やはり何かの仏像がある。そもそもお寺にお参りに行っても夜叉像自体を目にすることは大変少ない。仏像の本を見ても滅多に出てこない。台座に小さな仏像を配置するというのも記憶にない。これも神仏習合の考え方から生まれた夜叉像、阿弥陀三尊像だからなのか。

真禅院図録7

他にも気になったのは、四天王の内、多聞天。四天王像は足元に鬼神を踏んでいることが多い。この作例もそうであるが、多聞天だけ台座部分に小さな仏像が設置してあった。

真禅院図録8

姿からして如来像だ。阿弥陀如来か釈迦如来か。台座に小さな如来像がある多聞天は多分ここだけだと思う。後から置いたのか、最初からあったのか。

江戸期の再興像かと思うが、当初からこうなのか、どういう意味があるのか考えるほど気になってくる。

真禅院7

真禅院には他にもお堂がある。

真禅院15

手前の社は弁才天。奥は忘れました。

観音様を祀るお堂もある。

真禅院10

秘仏の十一面観音像が祀られている。

真禅院は天台宗のお寺だが、天台宗はおみくじ発祥の宗派だ。平安時代の僧侶、元三大師がその創始者と言われている。この観音堂には元山大師(如意輪観音)も祭られていて、300円でおみくじが引けるようになっているが、面白いのがおみくじを引く時の所作が解説してあること。

メモし忘れたのが残念だったが、確か本尊をお参り(真言を唱える)し、続けて如意輪観音をお参り(真言)、その後おみくじの棒が入ったケースを頭上に掲げて・・・という段取りをしてから棒を引く。番号が書いてあるのでその番号のおみくじをもらうと言うもの。

解説通りに真言を唱えた後、私がしたのは住所と名前を述べ「今の私に必要な言葉を下さい。よろしくお願いします」と言葉を述べた後におみくじを引いた。

結果、これが後に起こる出来事に必要なアドバイスだった。まさに自分だけの言葉を頂けた。手順通り行えば誰でも高確率で必要な言葉が頂けるおみくじです。興味のある方はぜひどうぞ。


南宮大社は立派な神社ですが、すぐ裏にある真禅院も素晴らしいお寺なので、嘗ての神仏習合の時代を思いながら、こちらも一緒にお参りすることをお勧めします。また行きたいお寺ですね。







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2018-09-27

◆真禅院  前編

真禅院1

南宮大社の正面から見て右側の坂道を車でしばらく進むと、旧南宮大社神宮寺が見えてくる。

真禅院2

神宮寺というのは神社の中に建てられたお寺のこと。

真禅院3

昔は神と仏が同じくして祀られていた。このお寺はその時代の名残がある。

お寺だけど入り口に注連縄がある。

真禅院4


歴史を紹介してある看板。長いので搔い摘んで紹介すると・・・


①天平11年(739年)創建。開基は行基菩薩。自らが阿弥陀如来を彫刻された。秘仏。


②天平12年11月に聖武天皇がこちらのお寺と、曳常泉を訪れている(続日本紀より)。曳常泉とは現在の垂井の泉のこと。


③延歴の年(782-806)、伝教大師(最澄:日本の天台宗の祖)により南宮神社とこのお寺が習合され「神宮寺」となる。


④天慶2年(939)、平将門公調伏祈願、四天王の秘法を修し、結願の時に討ち取ったという報が。寺社領を下賜される。


⑤康平2年(1059)正月、安倍貞任追討の御祈願があり、その霊験により法性大菩薩の勅額と寺領を下賜される。


⑥文亀元年(1501)、火災により諸堂が灰塵と化す。10年後、土岐政房により諸堂復旧。


⑦秀吉により供田として160石、寺社堪忍として200石の朱印を下されるが、後に関ケ原の戦いで焼失。


⑧寛永19年(1642年)、三代将軍家光により再興。当時の地図を見るに沢山お堂があるのでほぼ元通りか。


⑨明治政府の神仏習合廃止により、22堂塔坊舎を統廃合。神宮寺から朝倉山「真禅院」へ寺名が変わり現在に至る。


1300年近い歴史の中で、大規模な火災が二度、明治の廃仏毀釈により縮小、統合、移転という大変な歴史を歩んだお寺だと分かる。南宮大社の方の記録にも平将門公調伏というものがあったが、てっきり金山彦大神で御祈祷をしたのかと思ったが、こっちの記録では仏教の四天王で行ったとあった。どっちかが正しいのか、あるいは両方正しいのか。


真禅院図録3

江戸時代の南宮大社の境内の図を見ると、金山彦大神を祀る建物(赤色矢印)の直ぐ隣に、本尊の阿弥陀如来を祀るお堂(本地堂:赤丸)があるのが分かる。


これが明治になると、地図で言えば□で囲ってある薬師堂と十一面観音堂などと統廃合されたようだ。現在の真禅院の場所がこの辺りなのか、あるいはもっと奥の方なのかは昔の地図では分からない。

真禅院図録7

現在地には阿弥陀如来を祀る本地堂や、古地図にある薬師堂、観音堂もあった。

真禅院8

こちらが薬師堂。江戸期に再興された状態で今なお残っている。

真禅院11

元々は奈良時代のお寺。古そうな鐘もある。

真禅院12

真禅院13

看板を読むに、奈良時代の鐘のようだ。重要文化財指定になっている。全国的にもこんな古い鐘はそうそう残っていないだろう。寺院の鐘は太平洋戦争中に没収されたことが多いので、古い鐘、しかも奈良時代の鐘が残っていると言うのはもう奇跡的と言える。


真禅院14

三重の塔も立派だ。こちらも重要文化財になっている。こんなでかい建物も明治期に移築したのか。

色々調べてみたら、「神宮寺」という名前は明治政府により使うことを禁じられたようだ。お寺の統廃合、移転に尽力した僧侶、秀覚法印の自坊名が真禅院だったので、この名前に統一したらしい。

村の人達の奉仕よって現在の寺の姿になったようだ。政府の命令で壊される可能性もあったと思うが、当時のお坊さんや村人達の努力のお陰で残ったのだ。そう考えると先人たちの想いの凄さを感じる。

次回は境内にある重要文化財の建物の一つ、本地堂について考えてみます。










2018-06-12

◆桑實寺と安土城  後編

桑實寺の本殿を参拝後、境内を散策していたら何でもない山の斜面、岩がいくつか顔を覗かせている所が、お参り出来るようになっていた。どうもこの山自体が信仰の対象になっているようだった。

そう考えた時、山の麓に古墳があるのも納得だった。その古墳は瓢箪山古墳と言う。

瓢箪山古墳
(画像はネットより)

4世紀後半に造られたとされる県下最大かつ最古級の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。1989年に雪野山古墳が発見されるまでは、滋賀県で最大の前方後円墳であったそうだ。


仏教が日本に伝来する前に多くつくられた前方後円墳。


そもそも何故古墳が作られたかというのは諸説あるようだが、梅原猛氏によれば「古代人が古墳を作った理由は山になろうとしたから」と言う。自然の山そのものが神であるので、その神である山になるのが古墳なのである。
 
 
山の麓に古墳があるという事は、その山自体が元々信仰の対象であったので、その山の神になる、あるいは同列になるという発想だったのだろう。
 
 
山を切り開いてまで寺院を作ったのは大変な労力であったと想像できるが、何故そうまでして桑實寺を建てたのかは、元々この山とその周辺が霊地だったからなのだ。


そんな古代からの霊地に、後からやって来て城を建てたのが織田信長である。


経営者やリーダー的な地位にいる人は、戦国期の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では信長を好む人が多いらしいが、個人的には信長という人物は革新的な面もある一方、恐ろしさもある人物だと思う。


特に滋賀県の古い寺は、織田信長に燃やされ、後に再興したという歴史が残っていることが多い。滋賀県の寺参りをしていると「ここもか!えっ、ここも?」と火を放った寺の多さに驚く。
 
 
被害にあったお寺全てに確認したことがないので分からないが、当時の大きな寺院は僧兵がいたので燃やしたと聞いたことがあるが、それ以外にも気に入らない寺は燃やしていたのではと思う。
 
 
信長の後、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は、死後それぞれ神となった。秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現だ。そんな二人と違い、織田信長は生きている間に自身は神であるという認識だったように思う。
 
 
桑實寺参拝の前に寄った安土城考古博物館には、1/1スケールの安土城が復元展示されていた。全部ではなく5階、6階部分だ。

安土城2

これが最上階の6階部分。金と漆の黒が映える豪華なお城だ。

安土城3

こちらが信長個人の部屋。

安土城1

この赤い漆塗りの部屋が、5階部分。


この部屋には絢爛豪華な壁画があった。意外だったのが寺を攻撃していた信長らしくない、釈迦と諸菩薩の画があったこと。

安土城4

それと古代中国の殷を打ち滅ぼした、周の王様が描かれていた。周の王様は伝説の名君とされている。


信長は釈迦や周の王様を尊敬していた訳ではなく、それよりも自分が上であると考えていたのだろう。だから自分の部屋を上の階に設けたのだ。


歴史上の城の中でも、特に豪華で珍しい造りの安土城。そんな安土城も築城して3年で焼失してしまう。


私はてっきり信長を討ち取った明智光秀がやったのかと思っていたが、調べてみたら諸説あるようで謎になっていた。


寺に火をつけまくっていた織田信長は、皮肉にも寺で炎に包まれて最後を迎える。


復元された安土城の壁画、古代からの霊地に古墳を見下ろすような場所に築城するということから考えても、自分が偉い、自分こそ神であるという信長の考え方が伺える。
 
 
しかし、そんな考え方は人だけではなく、神をも敵に回すことになってしまったのではと思いました。


おしまい



2018-06-04

◆桑實寺と安土城  前編

休日を利用して滋賀県にある安土城考古博物館に出かけた。

こちらには近くに安土城の趾があり、博物館内にも安土城を一部復元した原寸大の建物がある。

桑実寺1

「武将達は何故、神になるのか」

という展示会を観るのが目的だ。

展示会図録


内容は大変面白く判りやすいものであった。

観覧後、前から知ってはいたものの、中々行く機会に恵まれなかった、博物館裏手の山中にある「桑實寺(くわのみでら)」にお参りに行くことにした。


桑実寺2


桑實寺へ向かうには車では行けない。山の麓から続く石の階段を登って行くしかない。

参道は長くて疲れると聞いていたが、想像よりも長い石段だった。

桑実寺3


桑實寺は白鳳6年に創建された天台宗の古刹だ。

桑実寺4


しかし本当に長い。


桑實寺は天智天皇の勅願寺院として創建された。縁起によればその昔、湖国に疫病が流行し、天皇の第四皇女、阿閇姫(あへいひめ)も病にかかった。

姫は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見た。この話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明が差した。
 
この光明に当たった人々の病は治り、姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。
 

桑実寺5


山門が見えたので着いたかな?と思ったが、ここが入り口で更に階段が続いていた。門の脇に置いてあった竹の杖を拝借。


桑実寺6


真夏だったら水筒必須です。
 
桑実寺7


桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広められたことに由来する。私の職業にピッタリのお寺だ。
 
 桑実寺8

上の方にお堂が見えたが、こちらは地蔵堂だった。

更に階段は続く。

桑実寺9

お地蔵さんをお参りしがてら小休止。そしてまた歩を進める。

桑実寺10

参道を登っているのは私だけ。余計な物音は無く、ウグイスが鳴いていた。

天狗でもいそうな雰囲気だった。

桑実寺11

ようやく本堂が見えた。立派な御堂だ。

桑実寺12


こちらの本堂は南北朝時代の建物で、重要文化財に指定されている。山の一部を削った場所に建っているようだ。

桑実寺13

滋賀県のお寺参りをしていると、織田信長が火をつけたという話が沢山残っているが、桑實寺は信長の居城、安土城があったすぐ近くのお寺なので、流石に火はつけなかったようだ。
 
長い階段を登り切って目に飛び込んできたお堂は、大変素晴らしく美しかった。

本尊の薬師如来は秘仏であったが、その他にも密教寺院らしく多くの仏像が残っていた。

桑実寺薬師如来


こちらは頂いた案内に掲載されていた写真。

秘仏の薬師如来像だ。縁起によれば奈良時代の作と云われる。

御開帳は12年に1度。寅年に行われる。

寅年の春と秋に開帳するそう。具体的な日程はその年ごとに若干違うらしい。


帰り際、下山途中にある木の下を通りかかったら静かな風と共に、上から葉っぱがハラハラと結構な枚数が落ちてきた。光が反射して、何ともいえない美しさで見とれてしまいカメラを向けることも出来なかったのが悔やまれます。

自然と溶け込むような良いお寺です。ご興味のある方はぜひどうぞ。

※桑實寺はこちら



と終わる予定でしたが、今回はあまり興味は薄いですが、織田信長が築いたお城、安土城についても少し触れたいと思います。



2018-05-12

◆大阪・四天王寺

今年の4月。かねてよりお参りに行きたかったお寺、大阪の四天王寺に出かけた。

四天王寺③

想像以上に大きなお寺だった。

日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。


推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。


とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺⑦


四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。


その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。


四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
 
 
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

四天王寺④


この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。


この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。


敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。

太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。


もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

四天王寺②


この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。


守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。


一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。


後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。


四天王寺①


直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。


空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。


仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。


四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。


昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。


その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。


そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。


四天王寺⑤

石舞台だ。


四天王寺⑥

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。


聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。


1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。

御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。


聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。




プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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