2018-05-12

◆大阪・四天王寺

今年の4月。かねてよりお参りに行きたかったお寺、大阪の四天王寺に出かけた。

四天王寺③

想像以上に大きなお寺だった。

日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。


推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。


とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺⑦


四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。


その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。


四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
 
 
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

四天王寺④


この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。


この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。


敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。

太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。


もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

四天王寺②


この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。


守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。


一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。


後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。


四天王寺①


直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。


空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。


仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。


四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。


昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。


その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。


そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。


四天王寺⑤

石舞台だ。


四天王寺⑥

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。


聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。


1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。

御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。


聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。




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2018-04-10

◆京都・『閑臥庵』

京都の泉屋博古館という、中国の古代青銅器を沢山収蔵する美術館を観に行くツアーに参加した。

そのツアーの中で昼食で立ち寄ったのが黄檗宗(禅宗)のお寺、「閑臥庵(かんがあん)」だ。

こちらのお寺は京懐石普茶料理という、肉や野菜を使わない料理が有名である。

実際、初めて食べた普茶料理はなかなか美味しかった。


閑臥庵はツアー的には昼食で訪れただけだが、個人的には本ツアーの中で一番驚いた場所だった。

平安時代の陰陽道の神像を祀っていたのだ。

京都閑臥庵①

仏像と神像、どちらも好きでお参り出来る機会があれば拝観に出かけるが、仏教の仏様を彫ったものが仏像。かたや神社の神様を彫ったものが神像と言う。
 
 大陸から来た仏教の仏像と違い、神像は日本の神なので、着ている服装も昔の人の服装に準じている。官位束帯の出で立ちが多い。しかし、こちらのお寺の神像は、神道(日本風)の神像ではない、大変珍しい陰陽道の神像なのだ。
 
 
閑臥庵チラシ・部分
(画像は頂いたチラシより)

この神像は「北辰鎮宅霊符神」と言う。陰陽道の最高神、北斗七星(北極星とも)を神格化した神様だ。

何でも元は平安時代の中頃、円融天皇が方除、厄除の霊神として京都の丑寅(うしとら:東北)に当たる貴船に祀ったもので、安倍晴明に付託開眼させたと伝えられる金剛像とあった。


貴船と言えば貴船神社のことか。閑臥庵がある場所は町中の平地だ。貴船はもっと遠い山の中である。


京都閑臥庵②

お寺にある縁起によれば、江戸前期頃、後水尾法皇が夢枕に立った父、後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護の為に貴船の奥の院から、この地へ勧請したとあった。


来歴を見て気になったのは、京都御所から見て鬼門は比叡山であり、貴船はほぼ真北であることだ。貴船は鬼門ではないということ。それと平安時代に鎮座したものを、霊夢とはいえ何故この地に持ってきたか?である。
 
 
食事中、男性のスタッフが料理を運びながらこの北辰鎮宅霊符神について解説してくれた。


京都閑臥庵③

話は変わるが、今更気付いたが、上の写真の左上、何か黒い影が写っている。丸い何かだろうか。気持ち悪い感じはしないので多分大丈夫だと思うが、私と一緒にお堂を見てた感じか。まぁこういうこともあるか・・・。

話を戻そう。


この男性は神主(?)らしく、お寺の本尊はお坊さんが、北辰鎮宅霊府神はこの神主さんがお参りしているらしい。変わっているのは北辰鎮宅霊符神の祭祀は夜にやるということだった。
 
また通常神社の参拝の所作は、柏手は2回叩くがこちらの場合は7回叩くそうだ。
 
 
これはこの神様が北斗七星であるからとのことだった。なぜ夜祭祀をするのかと言うと、陰陽道は呪い要素が強いので人が寝静まった夜に行うとのことであった。
 
 
確かに陰陽道には式神を始め、映画や小説、漫画などの影響もあり呪術合戦というイメージがあるが、むしろ陰陽道の中核はあくまで暦だ。
 
夜に行うというのは、やはり最高神が天体の中枢でもある(と考えられた)、北極星や北斗七星を神格化した神様だからということではと思う。夜でないと星は見えないからだ。
 
 
私が今まで実際にお参りした神像、本で見た神像、そのどれとも違う姿が衝撃的だった。陰陽道では丑寅の大金神、牛頭天王、そのご子息たちの八王子など、祟り神の方のが有名なので陰陽道的な神像も牛頭天皇や八王子は見たことがあったが、この北辰鎮宅霊符神のような神像があることすら知らなかった。
 
 
それもそのはずで、長らく秘仏であったらしく、こちらのお寺でも公開に踏み切ったのは2009年からとのことであった。


食事が終わった後、今一度このお堂の前に戻り、観察してみた。


確かに狛犬にも陰陽道の形跡があった。

京都閑臥庵⑤


五芒星だ。

神像を祀るお堂では線香は焚かないが、こちらには線香を燃やす炉もあった。その線香の置き方も五芒星だ。

京都閑臥庵④

再度手を合わせてお参りし、格子の隙間から中を除くと、黄檗宗系の中国系の天部像も祭ってある。そしてこれも興味深かったが、秘仏だった北辰鎮宅霊府神の※御前立が宇賀弁才天だったことだ。
 
日本の宗教は仏教や神道、そして陰陽道が複雑に絡み合っていた時代があった。その中で北辰鎮宅霊符神が密教の宇賀弁才天と習合したのかもしれない。弁才天ならありえる話だ。
 
 
閑臥庵に特殊な神像があることは、そんなに有名ではないようなので、殆どこの神像に纏わる資料らしい資料は見当たらない。近年まで秘仏だったので猶更だ。


短い滞在時間だったが、色々と考えさせられるお寺だった。ある意味最も京都らしい神像を祀っていると言える。晴明神社をお参りする人は、ぜひ足を延ばしてこちらへお参りに来ることを強くお勧めします。



※御前立・・・厨子に閉ざされた仏像の前におく仏像のこと。本尊を真似たものが多い。このお寺のように全然違う姿の仏像を置くのは稀である。

2018-03-27

◆辨天寺

弁天寺1

名古屋市港区にあるお寺「辨天寺」。
 
 
仕事中に真言宗の匂いのするお堂を見つけた。
 
 
個人的に弁天様は好きでよくお参りしてるので、お寺の名前を見てこれはお参りせねばと立ち寄った次第。


お堂の中に入り、手を合わせてお参りしたが凄い弁天様だと感じた。


弁天寺6


弁才天を本尊格で祀るのは珍しい。


日本三大弁天の一つに、滋賀県の竹生島の弁才天が挙げられるが、そこの名古屋別院がこちらのお寺だ。


弁才天のお姿は大まかに分けて2種類ある。一つは腕が2本で琵琶をもった姿。


もう一つは腕が8本で、頭上に宇賀神を頂く宇賀弁才天と呼ばれる姿だ。


辨天寺の弁才天は後者で秘仏となっている。


本尊秘仏宇賀弁才天は、元々は彦根城の城主、井伊直弼公が天守閣に安置し信仰していた尊像で、明治初年に井伊家より竹生島に奉納されたものがこちらで祀られるようになったとのこと。大正の頃に建立したお寺と聞いていたので、本尊は新しいのかと思っていたが少なくとも江戸期のものであると分かった。
 
 
お寺の資料によれば、宇賀弁才天の八本の腕にはそれぞれ持物と呼ばれる宝具を手にしているが、それらは如意輪観音、馬頭観音、準堤観音、聖観音、千手観音、十一面観音、不空絹索観音、白衣観音の八大観音の惣体を表し、各々の誓願を示されたものであるとあった。


これはつまり凄い御力を持っているということになる。八大観音の力だ。

 
資料にはこうもあった。おそらく弁才天に関する経典の一節であろう。


弁才天の御本誓は、もしも貧苦で困り果てた人があって福運を祈る時、

「我もし一、七日の中に其の願を満たさなかったならば、誓って正覚を獲られない。そして若しもこの言が虚妄であったならば、我逆罪を作らずといえども、阿鼻城を家と成し、無量却を経ても仏にまみえない」


弁天さまの言葉を借りればこういうことだろうか。


「貧苦で苦しんでいる人が私に福運を祈る時、1週間以内にその願いを満たすことが出来なかった場合、私は正気ではいられません。そしてもしこの誓いが虚妄であったなら、私の家は八大地獄の様相になりますし、私自身も永遠に仏(如来)には会いません」


福徳貧転の願いが成就できない場合は、弁天様は落ち込みまくって地獄のような状態になる・・・・・・。
 
 
つまり裏を返せば途轍もない弁才天の自信の現れた言霊なのだ。私を信じ、貧苦からの脱出を願うものは必ず成し遂げましょうと言うのである。


真面目にお参りしる人には、御利益がありそうな感じがしたお寺だった。名古屋一の弁天様と呼んでもいいかもしれない。


ご興味のある方は是非お参り下さいませ。




◆辨天寺

住所:名古屋市港区多加良町4-278-1
電話:052-381-2306

1月1日~1月7日 御開帳




2017-11-24

◆比叡山西塔 御開帳

家族で比叡山延暦寺にお参りに出かけた。

延暦寺へは過去数度出かけているが、今回の目的は西塔と呼ばれる地域にあるお堂だ。

33年ぶりに釈迦堂の秘仏、秘仏釈迦如来が御開帳になったのだ。

延暦寺西塔①

延暦寺の境内は広い。

山道を車で上っていくが、今回は霧が濃く出ていて運転にも神経を使った。

小雨が降り、気温も低い中であったが参拝客は結構いた。

延暦寺西塔②

お寺の堂内、本尊を祭ってある場所を内陣というが、その内陣を一般公開(入れる)するのは初らしい。

延暦寺のホームページによれば、



①現在の建物は、比叡山焼き討ちの後、文禄4年(1595)に豊臣秀吉が園城寺(三井寺)にあった弥勒堂を移築されたもの。

②元は貞和3年(1347)に建てられた仏閣であり、比叡山内では最も古い建造物。

③回峰行の祖・相応和尚一千百年御遠忌にあたり、三十三年ぶりに一般公開となる。

④御本尊の木像釈迦如来立像は内陣正面の須弥壇に奉安されています。

⑤堂内では釈迦如来を守護するように東西南北に四天王像が立ち並ぶ。

⑥内陣には四つのお社(おやしろ)(文殊菩薩・元三大師・山王七社・八所明神)があり、それらのお扉も初めて開く。




とのこと。本尊の釈迦如来像のお姿をお参りできる機会も貴重だが、内陣に入れること(寺によっては、御開帳でも内陣までは行けないこともある)と、内陣にあるお社も初公開というのが更に貴重である。


内陣のお社の文殊菩薩は仏教の仏、元三大師は平安時代の比叡山のお坊様(おみくじの元祖)、山王七社や八所明神は比叡山を守る神々である。


以前ブログに名古屋城の魔除けについて書いたが、家康公のことを調べると山王七社や八所明神についても触れなければならないなと思いつつ、それはまたの機会に考えたい。


延暦寺西塔③


しばらく進むと常行堂と呼ばれる建物が現れる。

しかし、霧のせいか、はたまた御開帳ということで全山の神々が集っているからか、なんとも神秘的な雰囲気だった。


どこかで見た水墨画を思い出す。


延暦寺西塔⑤

釈迦堂が見えた。

延暦寺西塔④

もっと写真を撮ればよかったと悔やむが、その雰囲気に飲み込まれていたと思う。


延暦寺の根本中堂や、釈迦堂は変わった造りになっている。普通のお寺は人がお参りする場所(外陣)から座って本尊を見ると、目線より高い位置にある。内陣の方が高くなっているのだ。

しかし延暦寺の場合、内陣を見ると分かるが、外陣の床より、内陣の床のが遥かに低くなっている。何メートルという位違う。


そして、本尊を祭る須弥壇が櫓のように建物中央に鎮座する。


本尊釈迦如来像の位置は、外陣でお参りする人と同じ目線になっているのだ。詳しく聞いたことはないが、おそらく同じ目線で仏様に接することで、「己の中の仏性に気付きなさい」ということなのだろう。仏はあなたの中にいるということだ。


どちらが先かは分からないが、神道の鏡も同じ意味がある。


釈迦堂の堂内は神と仏が同時に祀られる場所だ。神仏習合の教えが色濃く残っている。


須弥壇の四方には東西南北を守護する四天王が祀られている。薄暗い中を歩きながらお参りし、この四天王が目に入ると思わず硬直する。確かに仏を守り、人間に喝をいれる存在だと再認識する。四天王を怖いと思ったのは初めてかもしれない。


私見だが、お寺と神社では感じ方が違う。


この日は仏の温かさと神の厳しさを両方感じた不思議な体験だった。目には見えないが明らかに神々が集結している感じがした。


本尊の釈迦如来はあまり大きくなく、正面からお参り出来る位置からは距離があるのでハッキリは言えないが平安末期から鎌倉時代くらいだろうか。内陣須弥壇の裏側に、お前立と思われる釈迦如来像があったがそれを見ると鎌倉時代の様式だった。


参拝客の年配の女性で仏像に詳しい方だと思うが、最澄自刻の像と言われるけどあれは鎌倉時代では?と話していたのが耳に入ったが、美術品として観ればそうかもしれないが、信仰の対象として観ればそんなことはどうでもいい。仏像から感じるもの、内陣の神秘的な雰囲気あれは紛れもない本物だからだ。


帰り道、行きでは気付かなかった弁天様にお参り出来て良かったです。12月10日まで御開帳です。これをお読みの皆様に、良きご縁がありますように。


2016-10-26

福井の仏像 ~白山を仰ぐ人々と仏たち~ その②

今回の展示会ではいろいろと考えさせられたが、その中の一つに五智如来像があった。この仏様は2015年の5月に福井の秘仏巡りツアーに参加した時にお参りした。

その時の写真がこちら。

大日如来修復後

まさかまたこうしてお姿をお参り出来るとは思わなかったが、五智如来とは画像の大日如来を中心とした阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来の五つの如来のこと。

この大日如来像は平安時代のもので、現在の姿は修復されたものである。修復前の姿がこちら。

大日如来修復前

比べると全然顔が違う。これは平安時代に作られた仏様が、江戸期に修理された際、顔が変わってしまった例だ。これを調査した結果、江戸時代の直しの下に平安時代の顔があることが分かった。


今回の展示会の図録には、その時の修復の様子が載せられていた。


福井の仏像 釈迦如来2

こちらが同じ五智如来の一つ、釈迦如来像だが、江戸期の修復履歴があるらしい。


これを先の大日如来と同じく、丁寧に調べたら、やはり顔の下に平安時代の釈迦如来のお顔があった。


福井の仏像 釈迦如来3

お化粧のパックみたいにズルッと剥ける感じだ。

福井の仏像 釈迦如来4

これが剝がされた江戸期の修復部分。顔や体の部分までごっそり紙や漆で盛られていた訳である。

福井の仏像 釈迦如来1

で、こちらが出てきた平安時代の姿を補修した現在の御姿。いかにも古像という雰囲気だ。

今回展示こそなかったが、この日参加した薬師如来をテーマにした講義の中で、五智如来の修復と同じケースの薬師如来が、やはり福井のとあるお堂にあるとの話があった。

福井の仏像 薬師如来3

赤・青・金色という目に厳しい配色の薬師如来像だ。

この像も、直した箇所の下には古い顔があると地元の人達に伝えた所、「ならば本来の姿にしたい」との意向を受け、現在表面の漆を剥がす作業をしているとのこと。

福井の仏像 薬師如来2

これが修理中の写真だが、もう全然違う。元の方が遥かにカッコイイ。


講義の中で「なるほど」と思ったのは、解体修理して判明したが、造像に用いられた木が雷に打たれた痕跡がある木材を使っていたことだった。この薬師如来像も霊木像だったのだ。


また、この修理中の薬師如来像がある地域は港町、海岸沿いであるが、この海岸沿いには薬師如来を祀るお堂が他にもいくつかあるらしい。古くからの港町に薬師如来像が多いのは、外からくる災いを退ける意味があったのかもというお話だった。


これはつまり、薬師如来自体が病気を治すご利益があるが、昔は病気=厄神や怨霊のせいと考えられていたので、それらを封じる、退ける力をもっていたのが薬師如来と考えられていたからだ。


話を戻すが、どちらの仏像も江戸期の修理の折、顔や姿をすっぽり隠すような形で手直しされていた。


こう言った直し方の例は地方にしかないのかなぁと思ったが、帰宅後に京都の超有名寺院でも似たような例があったと思い出した。京都駅から五重塔が見える、教王護国寺、所謂「東寺」の宝物館に祀られる大きな千手観音像だ。


東寺千手観音2

春・秋の一時期しか公開されていない宝物館の2階にある、像嵩5メートルを超える素晴らしい千手観音像(重要文化財)だ。個人的には多くの仏像が遺る東寺の中で、一番好きな仏像だったりする。


実はこの千手観音、元は宝物館ではなく、境内にある食堂という建物の中に祀られていたが、昭和5年に火災にあい千本あった手は焼失し焼けただれてしまった。

燃える前の姿が蔵書にあったので拝借するが、こんな感じだった。

東寺千手観音1

この千手観音、東寺に残る古文書と照らし合わせることで、過去に何度か修理されていることが分かった。

①900年頃に完成してから30年ほど後に、足元が損傷し修理。

②元久元年(1204年:鎌倉時代)に2年をかけて修理

③嘉禄3年(1227年)7月7日、千手観音転倒(おそらく修理)

④延宝8年(1680年:江戸時代)

⑤天保2年(1831年)

⑥蔓延元年(1860年)


また怪我の功名ではないが、炭化した部分を丁寧に調べることで、顔が江戸期の顔、鎌倉期の顔、そして平安の顔があったと分かった。福井のパックされたような仏像と同じような直し方がしてあったのだ。千手観音像は修復の際、どの時代の顔にするか議論し、結果的に現在拝観できる、造像当初の平安の顔になった。


都には当然、地方とは違い腕の良い仏師がいたし、官寺である東寺には豊富な資金力もあったと思う。しかし何度かあった修理の機会ごとに、少なくとも2回は顔を全て隠すような修理をした。平安時代の顔を活かした修理も充分可能であったにも関わらず、あえてそれをしなかった。

 
これは、千手観音を彫った木が強力な巨大な霊木であったので、その強すぎる力を少しでも抑えるように顔を新たに覆ったのではと思う。
 
 
私はまだお参りしたことがないが、関東の方には「覆面観音」という平安時代の千手観音像がある。これはあまりにも力の強い仏像で、人が挑発するような行為をすると容赦なく仏罰が当たる為、その力を抑えるために仮面をつけたという。今でも仮面の下のお顔は公開していないようだ。これは千手観音ではなく、彫られた霊木の怒りによるものだと思う。

覆面観音
(画像はネットより)


この話を踏まえて考えると、東寺の千手観音像や、福井の薬師如来像や五智如来像のように、元の姿が見えないようにパックする直し方の真意は、「全部包み隠した方が安全ではないか?」という発想があったからだと思う。


ひょっとしたら、全てを包み隠さずにはおられない、何か事件があったのかもしれない。


展示会場で平安当時の姿に修復された仏像は、とても迫力があった。


江戸時代にこの仏像の修理をした、当時の仏師の心境を考えると、今の姿よりも痛みもあった筈だから、更に畏れ多い仏像に見えたのでは?と思います





プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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