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2018-08-24

◆天河神社  御開帳

奈良県にある天河神社。修験道とも所縁の深い神社で、1300年の昔から弁財天を祀っている。もう終わってしまったが2018年8月某日、ご本尊の弁財天像が30年ぶりに御開帳という事でお参りに出かけた。

IMG_4977.jpg

天気は快晴、確かに暑いが名古屋よりは涼しかった。

IMG_4978.jpg


IMG_4974.jpg


この神社に参拝に来たのは、4回目か。前回訪れたのは平成20年。この時も御開帳だった。


弁財天は仏教(主に真言宗や天台宗)に登場する水の性質を持つ天部であるが、神社で祀られることもある。昔は神と仏は今ほど区別なく祀られていた。神仏習合という考え方で一緒になっていた。
 
 
今日の神社には仏教の仏が殆どいなくなってしまったが、弁財天は神社に残っているケースが比較的多いと思う。


IMG_4971.jpg


手と口を清めて本殿へ向かう。拝観料は3000円ほどだったか。通常の他所の御開帳と比べると高いような気がするが、これはお土産で弁財天の「比礼(ひれ)」が頂けるから。
 
 
比礼とは布のこと。神社側からの説明は無かったがおそらく御開帳に併せて御祈祷されたものと思われる。比礼とは神道に所縁のあるもので、古事記を読むと蜂比礼と蛇比礼が登場する。強力な厄除けの力がある御神器だ。
 

頂いた比礼は使い方等の解説も無かったが、今ならなんとなく分かるような気がする。

さて、上野画像左側の階段から本殿へと上がるが、階段側から見ると進行方向上に本殿はなく、上り詰めると神楽殿と本殿の間に着く。
 
本殿と神楽殿が階段に対して横向きに建てられている。これは珍しい造りで、全国でも類例はないんじゃないかと思わせる。
 
 
何度来てもこちらの弁財天社は清々しくも力強い場所だ。御開帳になっていた弁財天像を見て驚いた。10年前の御開帳で見た弁財天像とまるで違うのだ。少々混乱したが、後で神社の人に聞いたら、平成20年の御開帳は日輪大弁財天像で、この像とは違うと言う事だった。
 
 
天河弁財天社には、秘仏になっている弁財天像が二つあったと知った。前回御開帳の日輪大弁財天像は60年に一回の御開帳。今回の弁財天像は本尊格のものであった。こちらが30年毎の御開帳だったのだ。
 
 

どちらの弁財天像も、例え写真を撮っても良いと言われても、撮れない雰囲気があった。霊位と言った方が良いかもしれない。
 
 
本尊の弁財天像は所謂「宇賀弁財天像」で、三尊形式で祀られていた。中央に弁財天、向かって右側が阿弥陀如来、左側が蔵王権現だ。弁財天の周囲には小さな15童子像もあった。
 
 
蔵王権現ありきの弁財天、弁財天ありきの蔵王権現という感じで、こういう祀られ方をしているのは他にはないと思う。
 

10年前を思い返すと、日輪大弁財天像は単独で祀られており、どこか生々しいより人に近い雰囲気の尊像だった。もう感覚の話でしかないが、今回御開帳の弁才天は仏教色の濃い弁財天で、日輪大弁財天は神道寄りの弁財天だと感じた。


参拝を終え、境内にある祠をお参りしていた時、神社側が用意してくれた説明書きに目が留まった。

IMG_4968.jpg

上から4枚目の画像、階段途中の左側に5つ社があるが、それの解説文だ。この5柱の神様を見て驚いたのは、陰陽道に出てくる祟り神の中でも特に凄まじい力を持つと言われる「大将軍」を祀っていることだった。
 

五つ社の真ん中が日本を代表する天照大神、その両脇に大将軍と怨霊神として祀られた天神様、そして両角に地元の神と竜神様(弁財天は龍神の一族)を祀っていた。さらにこんな説明文も・・・。


IMG_4967.jpg

古い寺社はそこにある理由というのがある。何故その地が選ばれたのか。


天河弁財天の場合、それは4つの石があり、三つの川があり、8つの社があったからだという。この内8つの社は後から出来たのかもしれないが、8という数字、それも前述の境内に大将軍が祀られているとすると、この8とは八王子神を指す可能性も出てきた。
 
 
祟り神の王様的な存在、牛頭天王という神様が陰陽道には出てくるが、その子供達のことを八王子神と云う。もし説明文の八つの社が八王子神だとすると、八王子神に囲まれた中心に弁財天社があることになる。
 
 
帰りの道中、天河神社からさほど離れていない所に「八坂神社」があった。八坂神社の御神体は牛頭天皇(後に素戔嗚尊になる)だ。当日は時間が限られていたので調べられなかったが、天河神社の周辺の八つの神社に興味が出てきた。
 

そしてもっと良く分からないのが元々あった(?)4つの石。この内三つは境内にある。もう一つはどこにあるのか?

IMG_4970.jpg

触れないよう柵が施されていることから、御神体のような扱いだ。

IMG_4969.jpg


写真は無いが、境内には役行者像も祭られていた。役行者には二柱の鬼神が仕えていたとの伝説がある。男の鬼が前鬼、女の鬼が後鬼だ。この天河神社の氏子には前鬼の子孫が今なお残っているらしく、境内に奉納された石柱の裏にはその子孫を匂わせる名前もある。

IMG_4975.jpg

修験道との所縁が深い天河神社。それを切り離しては考えられない。

4回目の参拝にして初めて気付いた様々な疑問。
 
 
修験道の本尊で有名な蔵王権現、蔵王権現とはそもそも何なのか、天河神社周辺の八つの社は何が祀られているのか、八つの社は天河神社創建以前にあったのか、なかったのか、4つの石とは何なのか?


何分名古屋からは遠い吉野。頻繁に出かけることも出来ないですが、機会があれば天河神社の周辺をじっくり調べてみたいと思いました。





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2018-06-12

◆桑實寺と安土城  後編

桑實寺の本殿を参拝後、境内を散策していたら何でもない山の斜面、岩がいくつか顔を覗かせている所が、お参り出来るようになっていた。どうもこの山自体が信仰の対象になっているようだった。

そう考えた時、山の麓に古墳があるのも納得だった。その古墳は瓢箪山古墳と言う。

瓢箪山古墳
(画像はネットより)

4世紀後半に造られたとされる県下最大かつ最古級の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。1989年に雪野山古墳が発見されるまでは、滋賀県で最大の前方後円墳であったそうだ。


仏教が日本に伝来する前に多くつくられた前方後円墳。


そもそも何故古墳が作られたかというのは諸説あるようだが、梅原猛氏によれば「古代人が古墳を作った理由は山になろうとしたから」と言う。自然の山そのものが神であるので、その神である山になるのが古墳なのである。
 
 
山の麓に古墳があるという事は、その山自体が元々信仰の対象であったので、その山の神になる、あるいは同列になるという発想だったのだろう。
 
 
山を切り開いてまで寺院を作ったのは大変な労力であったと想像できるが、何故そうまでして桑實寺を建てたのかは、元々この山とその周辺が霊地だったからなのだ。


そんな古代からの霊地に、後からやって来て城を建てたのが織田信長である。


経営者やリーダー的な地位にいる人は、戦国期の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では信長を好む人が多いらしいが、個人的には信長という人物は革新的な面もある一方、恐ろしさもある人物だと思う。


特に滋賀県の古い寺は、織田信長に燃やされ、後に再興したという歴史が残っていることが多い。滋賀県の寺参りをしていると「ここもか!えっ、ここも?」と火を放った寺の多さに驚く。
 
 
被害にあったお寺全てに確認したことがないので分からないが、当時の大きな寺院は僧兵がいたので燃やしたと聞いたことがあるが、それ以外にも気に入らない寺は燃やしていたのではと思う。
 
 
信長の後、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は、死後それぞれ神となった。秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現だ。そんな二人と違い、織田信長は生きている間に自身は神であるという認識だったように思う。
 
 
桑實寺参拝の前に寄った安土城考古博物館には、1/1スケールの安土城が復元展示されていた。全部ではなく5階、6階部分だ。

安土城2

これが最上階の6階部分。金と漆の黒が映える豪華なお城だ。

安土城3

こちらが信長個人の部屋。

安土城1

この赤い漆塗りの部屋が、5階部分。


この部屋には絢爛豪華な壁画があった。意外だったのが寺を攻撃していた信長らしくない、釈迦と諸菩薩の画があったこと。

安土城4

それと古代中国の殷を打ち滅ぼした、周の王様が描かれていた。周の王様は伝説の名君とされている。


信長は釈迦や周の王様を尊敬していた訳ではなく、それよりも自分が上であると考えていたのだろう。だから自分の部屋を上の階に設けたのだ。


歴史上の城の中でも、特に豪華で珍しい造りの安土城。そんな安土城も築城して3年で焼失してしまう。


私はてっきり信長を討ち取った明智光秀がやったのかと思っていたが、調べてみたら諸説あるようで謎になっていた。


寺に火をつけまくっていた織田信長は、皮肉にも寺で炎に包まれて最後を迎える。


復元された安土城の壁画、古代からの霊地に古墳を見下ろすような場所に築城するということから考えても、自分が偉い、自分こそ神であるという信長の考え方が伺える。
 
 
しかし、そんな考え方は人だけではなく、神をも敵に回すことになってしまったのではと思いました。


おしまい



2018-06-04

◆桑實寺と安土城  前編

休日を利用して滋賀県にある安土城考古博物館に出かけた。

こちらには近くに安土城の趾があり、博物館内にも安土城を一部復元した原寸大の建物がある。

桑実寺1

「武将達は何故、神になるのか」

という展示会を観るのが目的だ。

展示会図録


内容は大変面白く判りやすいものであった。

観覧後、前から知ってはいたものの、中々行く機会に恵まれなかった、博物館裏手の山中にある「桑實寺(くわのみでら)」にお参りに行くことにした。


桑実寺2


桑實寺へ向かうには車では行けない。山の麓から続く石の階段を登って行くしかない。

参道は長くて疲れると聞いていたが、想像よりも長い石段だった。

桑実寺3


桑實寺は白鳳6年に創建された天台宗の古刹だ。

桑実寺4


しかし本当に長い。


桑實寺は天智天皇の勅願寺院として創建された。縁起によればその昔、湖国に疫病が流行し、天皇の第四皇女、阿閇姫(あへいひめ)も病にかかった。

姫は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見た。この話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明が差した。
 
この光明に当たった人々の病は治り、姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。
 

桑実寺5


山門が見えたので着いたかな?と思ったが、ここが入り口で更に階段が続いていた。門の脇に置いてあった竹の杖を拝借。


桑実寺6


真夏だったら水筒必須です。
 
桑実寺7


桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広められたことに由来する。私の職業にピッタリのお寺だ。
 
 桑実寺8

上の方にお堂が見えたが、こちらは地蔵堂だった。

更に階段は続く。

桑実寺9

お地蔵さんをお参りしがてら小休止。そしてまた歩を進める。

桑実寺10

参道を登っているのは私だけ。余計な物音は無く、ウグイスが鳴いていた。

天狗でもいそうな雰囲気だった。

桑実寺11

ようやく本堂が見えた。立派な御堂だ。

桑実寺12


こちらの本堂は南北朝時代の建物で、重要文化財に指定されている。山の一部を削った場所に建っているようだ。

桑実寺13

滋賀県のお寺参りをしていると、織田信長が火をつけたという話が沢山残っているが、桑實寺は信長の居城、安土城があったすぐ近くのお寺なので、流石に火はつけなかったようだ。
 
長い階段を登り切って目に飛び込んできたお堂は、大変素晴らしく美しかった。

本尊の薬師如来は秘仏であったが、その他にも密教寺院らしく多くの仏像が残っていた。

桑実寺薬師如来


こちらは頂いた案内に掲載されていた写真。

秘仏の薬師如来像だ。縁起によれば奈良時代の作と云われる。

御開帳は12年に1度。寅年に行われる。

寅年の春と秋に開帳するそう。具体的な日程はその年ごとに若干違うらしい。


帰り際、下山途中にある木の下を通りかかったら静かな風と共に、上から葉っぱがハラハラと結構な枚数が落ちてきた。光が反射して、何ともいえない美しさで見とれてしまいカメラを向けることも出来なかったのが悔やまれます。

自然と溶け込むような良いお寺です。ご興味のある方はぜひどうぞ。

※桑實寺はこちら



と終わる予定でしたが、今回はあまり興味は薄いですが、織田信長が築いたお城、安土城についても少し触れたいと思います。



2018-05-12

◆大阪・四天王寺

今年の4月。かねてよりお参りに行きたかったお寺、大阪の四天王寺に出かけた。

四天王寺③

想像以上に大きなお寺だった。

日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。


推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。


とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺⑦


四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。


その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。


四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
 
 
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

四天王寺④


この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。


この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。


敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。

太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。


もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

四天王寺②


この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。


守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。


一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。


後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。


四天王寺①


直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。


空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。


仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。


四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。


昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。


その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。


そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。


四天王寺⑤

石舞台だ。


四天王寺⑥

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。


聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。


1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。

御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。


聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。




2018-04-10

◆京都・『閑臥庵』

京都の泉屋博古館という、中国の古代青銅器を沢山収蔵する美術館を観に行くツアーに参加した。

そのツアーの中で昼食で立ち寄ったのが黄檗宗(禅宗)のお寺、「閑臥庵(かんがあん)」だ。

こちらのお寺は京懐石普茶料理という、肉や野菜を使わない料理が有名である。

実際、初めて食べた普茶料理はなかなか美味しかった。


閑臥庵はツアー的には昼食で訪れただけだが、個人的には本ツアーの中で一番驚いた場所だった。

平安時代の陰陽道の神像を祀っていたのだ。

京都閑臥庵①

仏像と神像、どちらも好きでお参り出来る機会があれば拝観に出かけるが、仏教の仏様を彫ったものが仏像。かたや神社の神様を彫ったものが神像と言う。
 
 大陸から来た仏教の仏像と違い、神像は日本の神なので、着ている服装も昔の人の服装に準じている。官位束帯の出で立ちが多い。しかし、こちらのお寺の神像は、神道(日本風)の神像ではない、大変珍しい陰陽道の神像なのだ。
 
 
閑臥庵チラシ・部分
(画像は頂いたチラシより)

この神像は「北辰鎮宅霊符神」と言う。陰陽道の最高神、北斗七星(北極星とも)を神格化した神様だ。

何でも元は平安時代の中頃、円融天皇が方除、厄除の霊神として京都の丑寅(うしとら:東北)に当たる貴船に祀ったもので、安倍晴明に付託開眼させたと伝えられる金剛像とあった。


貴船と言えば貴船神社のことか。閑臥庵がある場所は町中の平地だ。貴船はもっと遠い山の中である。


京都閑臥庵②

お寺にある縁起によれば、江戸前期頃、後水尾法皇が夢枕に立った父、後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護の為に貴船の奥の院から、この地へ勧請したとあった。


来歴を見て気になったのは、京都御所から見て鬼門は比叡山であり、貴船はほぼ真北であることだ。貴船は鬼門ではないということ。それと平安時代に鎮座したものを、霊夢とはいえ何故この地に持ってきたか?である。
 
 
食事中、男性のスタッフが料理を運びながらこの北辰鎮宅霊符神について解説してくれた。


京都閑臥庵③

話は変わるが、今更気付いたが、上の写真の左上、何か黒い影が写っている。丸い何かだろうか。気持ち悪い感じはしないので多分大丈夫だと思うが、私と一緒にお堂を見てた感じか。まぁこういうこともあるか・・・。

話を戻そう。


この男性は神主(?)らしく、お寺の本尊はお坊さんが、北辰鎮宅霊府神はこの神主さんがお参りしているらしい。変わっているのは北辰鎮宅霊符神の祭祀は夜にやるということだった。
 
また通常神社の参拝の所作は、柏手は2回叩くがこちらの場合は7回叩くそうだ。
 
 
これはこの神様が北斗七星であるからとのことだった。なぜ夜祭祀をするのかと言うと、陰陽道は呪い要素が強いので人が寝静まった夜に行うとのことであった。
 
 
確かに陰陽道には式神を始め、映画や小説、漫画などの影響もあり呪術合戦というイメージがあるが、むしろ陰陽道の中核はあくまで暦だ。
 
夜に行うというのは、やはり最高神が天体の中枢でもある(と考えられた)、北極星や北斗七星を神格化した神様だからということではと思う。夜でないと星は見えないからだ。
 
 
私が今まで実際にお参りした神像、本で見た神像、そのどれとも違う姿が衝撃的だった。陰陽道では丑寅の大金神、牛頭天王、そのご子息たちの八王子など、祟り神の方のが有名なので陰陽道的な神像も牛頭天皇や八王子は見たことがあったが、この北辰鎮宅霊符神のような神像があることすら知らなかった。
 
 
それもそのはずで、長らく秘仏であったらしく、こちらのお寺でも公開に踏み切ったのは2009年からとのことであった。


食事が終わった後、今一度このお堂の前に戻り、観察してみた。


確かに狛犬にも陰陽道の形跡があった。

京都閑臥庵⑤


五芒星だ。

神像を祀るお堂では線香は焚かないが、こちらには線香を燃やす炉もあった。その線香の置き方も五芒星だ。

京都閑臥庵④

再度手を合わせてお参りし、格子の隙間から中を除くと、黄檗宗系の中国系の天部像も祭ってある。そしてこれも興味深かったが、秘仏だった北辰鎮宅霊府神の※御前立が宇賀弁才天だったことだ。
 
日本の宗教は仏教や神道、そして陰陽道が複雑に絡み合っていた時代があった。その中で北辰鎮宅霊符神が密教の宇賀弁才天と習合したのかもしれない。弁才天ならありえる話だ。
 
 
閑臥庵に特殊な神像があることは、そんなに有名ではないようなので、殆どこの神像に纏わる資料らしい資料は見当たらない。近年まで秘仏だったので猶更だ。


短い滞在時間だったが、色々と考えさせられるお寺だった。ある意味最も京都らしい神像を祀っていると言える。晴明神社をお参りする人は、ぜひ足を延ばしてこちらへお参りに来ることを強くお勧めします。



※御前立・・・厨子に閉ざされた仏像の前におく仏像のこと。本尊を真似たものが多い。このお寺のように全然違う姿の仏像を置くのは稀である。

プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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