もみじの記録帳
古き良きものや、日々の気付き、思ったことを気ままに記録しています。
箕面山にて
7月1日、父と大阪の箕面山(みのおやま)と奈良に出かけた。出かけた理由は、現在執筆中の「地蔵寺縁起書」において、どうしても調べなければならない神、「辨財天」が日本で最初(最古)に人間の前に現れたという伝説が残る場所が箕面山だったからだ。

また、最初に出会った人間というのが、日本における世界遺産の一角を担う金峰山で有名な、修験道の開祖「役行者」だという。

この日帰り旅行は何と説明したらいいのだろうか、とんでもなく面白い旅だった。おいおいこのブログでも紹介して行きたい。


黄檗山の版木 最終回
続き〜
小学生の時、夏休みかにかで父と訪れた萬福寺。版木が収められた建物の中に、名物坊主がいた。名前は忘れたが、当時、版木を見学している時、若い男女が泣きながらこっちに歩いてきた。何事かと歩いてきた方を見ると、奥の方に、暗い中お経刷り続ける怖そうな坊主がいた。首にはピンポン玉くらいある大きく長い数珠を下げ、黙々と刷っている。父と私に目が合うと「こっちに来い」と手招きしている。

怖かったのと、遠い記憶なので話の内容は殆ど覚えていないが、近くに寄るなりいきなり怒られたのはハッキリ覚えている。「人の話を聞く時は正座しろ」だったか

父との会話で印象に残っている言葉は「おまえは重すぎる。肩の荷を降ろせ」だった。禅宗には問答というものがある。師が弟子に難しい質問をし、弟子がそれに瞬時に答える。時には考え苦悩し閃く。違っているかもしれないがある種の「気付きと行動」を実践していると思う。この時のやり取りもこれに近いものだった。ただ、こちらは一般人なので少々分かりやすくしてくれていたとは思う。

この坊主、後で聞いたら有名な方だった。寺には殆ど顔を出さず生涯版木を刷り続けたそうだ。観光客が来ると、厳しくも暖かい言葉を相手に合わせて的確に述べる。前述の男女も泣くほどの衝撃を受けたのだろう。それが感動だったのかどうかはわからないけど・・・。

鉄眼しかり、この方しかり、またこのブログでも紹介した岐阜の大仏の発案者・・・。黄檗山(黄檗宗)にはとんでもない偉人がいるなと思った。

おしまい


黄檗山の版木 その3
続き〜

簡単なものだが、鉄眼禅師の略歴を紹介する。鉄眼道光は1632年に熊本で生まれた。12歳で出家(この時は浄土真宗)し25歳で、隠元の弟子となった。何故6万枚にも及ぶ、一切経を全て版木にするという事に挑戦したのかは定かではない。

理由を考えてみた。あくまで推測だが、当時鉄眼は版木製作の為に集めた資金(この版木、現在の金額でいえば50億円の大事業だったそうだ)を飢饉で困っている人達に、一度ならず施している。
この行動から、当時の社会情勢を憂い、貧困層の救済という大願を掛けたのではないのだろうか。

1669年から始まった版木製作は9年後に完成した。鉄眼は晩年、こんな言葉を残している。「不器用だからこそ、誰もやらないような、大変なことができたのだろう」と。

重要文化財に指定されているこの版木、驚くことに現在も紙に刷られている。


黄檗山の版木 その2
黄檗山、萬福寺の塔頭、宝蔵院にその版木はある。その版木には、全ての仏典を集約したとされる一切経(大蔵経)が掘り込まれている。現在、日本において様々な仏教宗派があり、中には他の宗派は一切認めないという過激な思想の宗派もあるが、その教えの元を辿れば、全てはこの一切経に繋がるそうだ。つまり、大きく言えば同じ教えを否定するという事になるだろう。

さて、これが収められている宝蔵院の敷地内に鉄筋コンクリート製の三階建ての建物がある。中に入ると2階と3階の室内一杯に大きな版木がぎっしりと詰め込まれている光景が飛び込んでくる。
何度観ても、その都度圧倒されるが、真に驚くのは、この6万枚にも及ぶ版木、なんとたった一人の僧侶によって作成されたというのだ

この偉業を成し遂げた、鉄眼道光(てつげんどうこう)について調べてみることにした。

続く〜



黄檗山の版木
京都の宇治に、禅宗の一宗派、黄檗山萬福寺という寺がある。江戸時代、中国から渡来した隠元という僧が開いた寺だ。(ちなみに隠元がこの時、中国から持ち込んだ豆がインゲン豆と言われる)

このお寺、日本には珍しい中国式の建物があることで有名で、3回行ったことがあるが、何かピリッとした雰囲気のある綺麗な寺だ。

ついつい、建物や大きな仏像に目を奪われてしまうが、萬福寺に来たら是非一度観てもらいたいものがある。それは隠元の弟子、鉄眼が9年の歳月をかけて完成させた一切経の版木だ。子供の時、父に連れられ始めて眼にした衝撃、そしてそこにいた僧侶との会話は今でも記憶に残っている。

続く〜