2017-04-23

◆神社でのお参りについて思うこと その2 (萱津神社 前編)

愛知県あま市にある古社「萱津神社(かやづじんじゃ)」。

今回はこの萱津神社を例に、相手、即ち御祭神について知ろうというお話をします。

どこの神社にも必ず神様がいます。

その神様を知ることが、神様に対して愛着をもつ切っ掛けにもなりますし、そんな気持ちで手を合わせると自然と感謝の気持ちが湧いてくると思います。

萱津神社11

で、今回紹介する萱津神社。

ここの神社、日本で唯一の漬物の神様を祀っている。

萱津神社3

これが漬物を貯蔵している蔵のような建物。

毎年4回、熱田神宮の御祭りにあわせて今でも特殊神饌として、奉納されている。

萱津神社8

この神社の境内には、神様の姿の像が建っていた。これはとても珍しいこと。


御祀神は鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)と云う。女性の神、姫神様だ。

神社の神様は、大きく分けると自然が神様になっている場合と、神話に登場する男神、女神のように、人の姿をイメージするような場合がある。また、実際に歴史上に存在した人が神様になっていることも。菅原道真公や徳川家康公などがそうだ。また変わった所では動物や、体の一部が神様になっていることもある。

この萱津神社の創建は不明だが、相当古い神社だと思う。

神社に残る由緒によれば、


太古民族が沃野(よくや:作物が良く育つ平野)を求めて土地を開拓した頃、田畑を守る農耕の神「鹿屋野比売神」を祀る神社で、我が国唯一の漬物の神であり、諸病免除の神、縁結びの神と御神慈深き神として御神徳あり


とあった。初めて訪れた神社で最初にみて頂きたいのがこの社歴だ。神社側がホームページを持っているなら、事前に調べることも可能なので、そういう時は事前に調べてから行くのをお勧めする。

社歴は、そこの神社を知ることが出来るし、神名も分かる。そして御利益が分かることもある。ご利益について触れてなくとも、御祀神さえ分かれば、調べれば神様の性質から得意分野が見えてくる場合もある。

萱津神社7


この地に残る伝説などを踏まえて考えると、萱津神社の神様の得意分野(ご利益)は、やはり社歴の記述通り3つに絞られる。

①漬物関係
・漬物業者の方がお参りするのは◎ 拡大解釈して飲食店の人でも良いかもしれない。


②諸病免除

・神社に残る話では、初めてこの地で偶然漬物が生まれた。当初それは神からの賜り物として万病を治すお守りとしたとある。現在病気で悩んでいる方や、医療関係の方がお参りすると良さそう。


③縁結びの神

境内に縁結を象徴するご神木があることから、この御利益も強いと思う。


柏書房の「日本の神様読み解き辞典」によれば、鹿屋野比売神は伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)の夫婦神の御子で、野の神、または草の神であるとあった。そうなると・・・

④園芸関係のお仕事の方も良いかも。


となる。神社の神様には個性がある。全ての願いに対応できるという訳でもない。神様にも得手不得手があるのだ。鹿屋野比売神には上記4つの得意分野があるので、商売繁盛やお金儲け、学業成就などをお願いするのはちょっと違うと思う。


以上、「相手を知ること」を、社歴と神名から神様の得意分野を調べてみた。しかしこれで終わらない場合もある。神社によっては目線を変えるともう少し掘り下げることが出来たりするからだ。


次回は萱津神社 後編です。




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2017-04-14

◆「神社でのお参り」について思うこと   その1 

両親の話では、2歳から仏像に興味を持っていた私。

仏像好きから祖父や父の影響で、仏様への信仰心を持ち、やがて興味は神社へ・・・。

その後、神社について研究していた父から色々とイロハを教えてもらい、神社の神様への理解が深まるにつれ、仏教の凄さと神の力を再認識。


今日でも寺社へ参拝は良く出かける。この世で最も面白いものを早く気付けて自分はラッキーだとつくづく思う。



昨今はスピリチュアルという言葉も普通に浸透していると感じる。

大きな、観光地化している、人が沢山訪れる神社に参拝に行くと、鳥居の中央を避けて通っている人や、鳥居を潜る前にお参りしている人が、昔と比べると随分増えたような気がする。


子供の頃から神仏に囲まれた生活をしていたお陰で、寺社への興味が増すにつれ、寺と神社のお参りの仕方、その違いも分かるようになってきた。

特に神社では寺と比べると、参拝する時のマナーが多い。


今回のブログは、神社の参拝する時のマナーとはちょっと違うが、「ここを抑えてお参りすると良いかも?」という話をします。



その前に、これをお読みの皆様は、寺社へ参拝の折、神仏へお願い事をしたことはあるでしょうか?

ことお願いごとに関しては、神社の神様とお寺の仏様では後者の方が良いでしょう。


長年神仏が身近にいる環境で育ち、幼少の頃から現在まで寺社へ赴きお参りをしてきた結論から申しますと、仏教の仏様と神道の神様では明らかに違います。

何故かは説明すると長くなるので割愛しますが、神社は基本的には、お願い事をする所ではないように思います。


しかし、神社の神様が、「願い事について後押ししてくれないのか?」という訳ではありません。

お参りする人によっては、後押ししてくれます。(人によっては敵に回ることも・・・)


では、自分の願いに対して、どうしたら後押ししてもらえるのか?

それはいくつか方法がありますが、最も重要なのは「神様と仲良くなる」ということです。


では、どうしたら神様と仲良くなれるか?

それは人付き合いと似ていますが、最初の一歩は相手を知るということです。


次回から、実際にある神社を通じてそんなお話をしたいと思います。



萱津神社10


続く~



2017-03-28

◆考察・「天神山町」 最終回  ~天神山の謎~

天神山中学の名前の由来になった天神社の神様は菅原道真公ではなく、武塔天神、即ち牛頭天王だったと思う。

天神様は、町内にぽつんとある祠で祀られる神様ではない。

小さな祠で祀られる時は別のちゃんとした神社の境内の一角に祀られる。

西区富士浅間社・末社②
(富士浅間社の天神社)

例えば前々回紹介した西区浅間町の富士浅間神社には、御祭神の木花咲耶姫以外にも稲荷神を始めとした複数の神々が祭られている。

西区富士浅間社・末社①

この祠は全部で六柱の神々が祀られている。神明社、八幡社、津島社などだ。

一つの祠で纏めて祀られているのに対し、天神様は単体で祀られている。やはり怨霊神であったことが関係しているのだろう。

現在確認できる天神社、天満宮はちゃんとした敷地で主祭神で祀られるか、祠形式の場合は他の神社の境内にきちんと祀られるのが天神様の特徴だ。


町内の一角にぽつんとあるような祀り方はしないのだ。


天神山中学の学区内には八坂神社という嘗ては牛頭天王を祀っていた神社が、今尚遺っていたりもする。そんな事例を踏まえて考えると、やはり天神山町の町名の由来は、天神様ではなく武塔天神(牛頭天王)だったと思う。


おそらく天神山中学創立の際、当時の社の表記には「天神社」としか書かれていなかったので、天神様だと解釈されたのだろう。


牛頭天王が天神様へと変わった背景には、明治政府の政策が関与しているかもしれない。明治政府は国家宗教を神道と決めたので、数多くのお寺や仏像が壊されたり、捨てられたりした。それと同時に神社の御祭神も記紀神話に登場するる神々に置き換えられた。


牛頭天王は仏教でもなく神道でもない、陰陽道に登場する神様だ。民間人に身近な神様だったが、この牛頭天王も、陰陽道ごと明治政府に壊され葬られてしまった。


天神山にあった天王社もこういった経緯で御祭神が入れ替わったのではと思う。


亀尾天王社を丁重に祀った徳川家や、庶民の屋根神様、牛頭天王が名古屋城下に多々祀られていたのは、陰陽道がかなり名古屋城下町に浸透していたことを物語っている。


学研「陰陽道の本」によれば、平安~鎌倉時代にかけて時の権力者に重宝された陰陽道であるが、だんだんと武家社会になるにつれ陰陽道は凋落していく。しかし江戸時代、天下をとった徳川家康は陰陽道を復活させたとあった。


私の住む土地は名古屋城下の町だが、古くは押切村と呼ばれていた。私はその押切村に陰陽師の住む一角があったと睨んでいる。

 
私の家には安倍晴明所縁の亀塚が遺っていたり、嘗ての押切村のとある場所には※申ヶ辻の建物があったりするからだ。また名古屋市やその隣のあま市には安倍晴明が蛇や草を封じたとの伝説が残るものもある。


亀塚3
(安倍晴明伝説が遺る「亀塚」)


名古屋市の歴史愛好家の中で、最大の謎と言われるのが押切村であると聞いたことがある。名古屋の城下町に関わらず、尾張藩が1800年代に作成した地図には白紙状態であったり、資料の類がほとんどないからだ。


これは押切に陰陽師の住む一角があったとすれば、あえて語らずだったと思える。


名古屋城下に陰陽師達の集落があれば、民間に陰陽道が流れていてもおかしくない。故に名古屋城下には牛頭天王が多いのだ。


以上、天神山の由来は天神様ではなく、牛頭天王の社がかつてあったと結論付けたが、唯一天神山の「山」の字が残った。しかし、これが天神社を菅原道真公と解釈したのならば説明はつく。



菅原道真公は九州の大宰府に流された後、天拝山に上り天上の神に祈りを捧げ天満自在天になったという伝説がある。その伝説にある、天拝山の「山」が天神山の「山」だと私は解釈した。



最初の疑問は天神山中学の学校名の由来はなんだろう?という素朴な疑問だったが、本人も思わなかった話がゴロゴロ出て来た。名古屋の歴史、徳川家康公、陰陽道と牛頭天王などなどもっと調べたいことが次々現れた。また天神様のことも知っているようで知らないことが沢山あった。


これから天神様に関する歴史や、名古屋城下に残る陰陽道の痕跡を調べたいと思います。



おしまい



※申ヶ辻の建物
家や囲いの一部分の申の方位(南西)の角を、あえて凹ませて作ること。魔除けになるとされた。陰陽道の発想です。
2017-03-26

◆考察・「天神山町」 その5 ~屋根神様~

名古屋城、本丸御殿の真南にあった亀尾天王社。

若宮八幡宮が現在地(中区栄)に移築されたのに対して亀尾天王社は残された。

また、家康公没後は隣に東照宮を祀ったことなど踏まえてを考えると、家康公始め歴代の藩主達も、牛頭天王には特別丁重に扱っていたことが分かる。


歴代の徳川の殿様達にとっては別格扱いの神様だったのだ。


では庶民の間ではどうだったのか?

前述の郷土の歴史を纏めた本「西区の歴史」にそれに関する件があった。屋根神(やねがみ)様についてのものだ。

屋根神様②

画像の屋根神様は名古屋市西区那古野町にあるもの。円頓寺商店街の四間道と言った方が馴染みがある人も多いだろうか。

この屋根神様、名古屋市内の中でも西区はとりわけ多い。

この本が発行された昭和58年の情報だが、この時で129件確認されたとのこと。古いものだと明治時代ごろまで遡る。

屋根神様①

中の御祭神はだいたい三柱の神様で構成されている。この画像の屋根神様の場合は、津島神社・熱田神宮・秋葉山だ。

熱田は尾張の氏神様ともいえる神様。秋葉山は熱田神宮の隣にあるお寺が有名だが、これは天狗で火伏せの神様だ。

そして津島神社は牛頭天王(素戔嗚尊)である。

屋根神様の中の御祭神は家によって違いがある。中には天照大神や八幡様、大日尊などもあったが、圧倒的に多いのが牛頭天王だった。


牛頭天王は疫病を齎す祟り神である。昔の人が如何に疫病をおそれたかが分かる。その裏返しが「私はあなたを敬っています」という意思表示だった。

その祀り方は、人が歩く目線以下でななく、頭の上の高い位置へと祭ったのだ。何かの拍子に機嫌を損ねてはならないという考えからだと思う。


名古屋市西区、名古屋城下町には、牛頭天王が隅々まで根を張った状態で祀られていた。牛頭天王の町と言っても差支えないほどだ。天下をとった徳川家康や、その後の藩主達、城下町の一般大衆、皆牛頭天王を敬い祀っていたのだ。


これは愛知県には京都の八坂神社と匹敵する歴史を誇る、津島神社があることや、名古屋の中心に1100年以上前に祀られた亀尾天王社があったからだろう。


牛頭天王は、昔の名古屋に住む人たちにとって、最も身近な神様の一柱だったのだ。


続く~




◎追記

若宮八幡宮について掘り下げようと思いましたが、もう少し調べてからにします。


2017-03-25

◆考察・「天神山町」 その4 ~移築から再建・富士浅間社~

一度は移築されたものの、何かしら理由があり元の位置へまた神社を造る・・・。名古屋城の地にあった牛頭天王社はこんな経緯があったのではと思ったのは、前例があったからだ。


それが「富士浅間社」だ。

西区・富士浅間社①

名古屋城下町にあるそんなに大きくないこの神社。

西区・富士浅間社②
(以上二つの画像は西区の富士浅間社)



もともとこの場所に祀られていた神社ではない。400年ほど前に現在地へ移築された。最初に建っていた地は今で言う名古屋市の東区、「高岳(たかおか)」と呼ばれる交差点の近くにあった(以下「元浅間社」とします)。いや、移築後再建されたので、今でも残っている。

東区・富士浅間社③
(以下画像は元浅間社)

応永5年(1398年)に前山源太夫なる人物が富士浅間社(静岡)を参拝し、その御分霊を勧請したとのこと。看板を読むに近郷稀に見る霊地だったそうだ。

東区・富士浅間社②

徳川家康も参拝に来ている。そして名古屋城築城を切っ掛けにこの神社は名古屋城下町に移築が決定し壊されることになった。

東区・富士浅間社①

浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、神社は移築されたと云う。

元浅間社の境内には来歴はよく分からない石が今でも残っている。

東区・富士浅間社⑥

赤い桝形は一種のトレードマークか。石垣用ということで結構な大きさがある。

東区・富士浅間社⑤

この石は理由があって、元浅間社に戻された。素人目に見ても石垣としては十分使えそうな感じだったが、何か事情があり戻され埋められたのだ。


話は変わるが名古屋市の北区はかつて「古墳百墳」といわれるほど古墳があったが、現在はかなり少なくなっている。これ、実は家康公の命令を受けた加藤清正により、相当数の古墳が壊されたことによる。


古墳の中には石室とよばれる遺体を納める部屋があるが、どうもその石室に使われた石を目当てに古墳を壊していたようだ。


名古屋城は当時の例で見てもかなり大きな天守閣だ。想像以上に材料をかき集めるのに苦労したと思う。巨大な天守閣を支える石垣も凄い量が集められた。しかし、名古屋城が建つ地は山などない場所。掘れば石が出る所など近隣にはない。


故に、掘れば確実に石が出てくると分かっている箇所、古墳がターゲットになったのだ。


元浅間社の来歴には何も記されていないが、私はこの元浅間社の位置に古墳があったのではと考えている。古来からそういう場所は霊地になったり寺社が建てられることは多いからだ。そう考えたら、一度掘り出され、それが切っ掛けで異変が起こり、元の場所へ戻した・・・という理屈が通る。


元浅間社から出土した石は大きい。これは名古屋の古墳を調べた本に記されていたが、古墳の形により、使われる石のサイズが違うというのが分かった。この大きさの石が使われる古墳は、前方後円墳クラスの古墳である。


元浅間社の地名も「高岳」と呼ぶのも、この地に大きな前方後円墳があったと仮定すれば理屈に合う。あの辺りに行けば分かるが、見渡す限り平地であるのに高岳と言うからだ。


別の郷土史を読んでいたら、この元浅間社を移築した時に不思議なことがあったことが分かった。「元に戻せ!」という何者かが関係者の夢に出てきて告げたのだという。


当時の名古屋城築城について想像するに、造る方は大変な苦労を強いられたと思う。それこそ考えられる限り材料をかき集めるのに奔走した。徳川家康も古墳を壊すということを決定するまで、よーく考えたと思う。そうなると祟りが起きるかもしれないと。


石垣を集めた加藤清正と浅野幸長、そして牛頭天王の社を移築した佐久間政実(さくままさざね)。この三人に共通しているのは皆昔は豊臣方の侍だったということだ。


家康公としても、元豊臣方の侍三人に経済的打撃を与えるという目的もあっただろうが、古墳を壊したり、荒ぶる神の神社を移築するというそんな危ない仕事は、三河時代からの苦楽を共にした大事な家臣達にはとてもさせたくなかったのではと思う。


話を戻すが、名古屋城下に残る二つの牛頭天王を祀る神社の謎も、この浅間社の例で考えると案外そういうことなのでは?と思えます。


続く~


◎追記

名前は忘れたが北区には、古墳から掘り起こされたものの、何らかの理由で使わなくなった石が庭石として奉納された寺があった。





プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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